「無償の愛」という幻想の本質は「ギブ&テイク」である

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1  「無償の愛」という幻想の本質は「ギブ&テイク」である
 
 
 
「無償の愛」 ―― 相当に手垢がついた言葉だが、安楽死していない現実も頷(うなず)ける。
 
それを素朴に信じる人・信じたいと思う人が、世代を超えて繋がっているからである。
 
多くの宗教家は無論のこと、信仰と無縁な人でも、自らの行為を振り返れば、「あれが無償の愛だったんだ」と気づくケースもあるだろう。
 
「『無償の愛』とはなにか? 幸せな結婚を手に入れるヒント」(マイナビウーマン)というサイトによると、アンケートの結果、7割以上の男女が「無償の愛」の存在を信じていて、「親の愛情」をトップに挙げている人が多かったが、これは家族円満の証左であり、健全な家庭環境の賜物(たまもの)であると言っていい。
 
ここで、私は思う。
 
私たちが「無償の愛」という表現を捨てられないのは、単刀直入に言うと、感情に支配される人間が、特定他者との言語的・非言語的コミュニケーションの出し入れの中で、「心地良き特別な体験」として美化した「特定的な何か」が、鮮烈な記憶のうちに収斂されているからである。
 

様々な感情と、それに深く絡みつく、バイアス(先入観)やヒューリスティック(経験知・直感によって短絡的に問題を解決する思考方法で、バイアスと共に誰もが日常的に活用)という「思考の癖」を推進力にして、特定他者との関係性における「心地良き特別な体験」の中で、脳の記憶中枢のうちにインプリンティング(刻印付け)されていくのである。

 
要するに、「無償の愛」とは、情感系の発動によって手に入れた、特定他者との関係性における「心地良き特別な体験」を、自我のうちに「心理的取り込み」をする「特定的な何か」の一つである。
 
「無償の愛」=「見返りを求めない愛」という風に狭義に解釈されているが、当然のことながら、これは幻想である。
 
だから、「物語」によって生きる人間にとって、「見返りを求めない愛」という心地良き幻想は簡単に捨てられる何かではないと思われる。
 
ここで、「見返り」の内実を考えてみたい。
 
例えば、幼い我が子の帰宅が定刻より著しく遅い時、養育者としての母親は、居ても立っても居られない心境になるに違いない。
 
その時、不安に駆られ、自分のことを忘れて、近辺を必死に探し回るだろう。
 
我が子の居場所が不明だったら動転し、派出所や地元警察に駆けつけ、捜索を依頼するかも知れない。
 
そんなネガティブな心境に陥っている母親のもとに、まるで何気ない様子で、我が子が帰って来た時の母親の喜びは計り知れないだろう。
 
拍子抜けする我が子の態度に怒って見せるが、本音は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の心境を隠し込んでいるだけだから、我が子に見透かされてしまうのがオチである。
 
普段は、日常的なルーティンを繋いでいるから特段の心配もしないが、このように、非日常の事態に遭うと、落ち着いていられないのが人間の性(さが)である。
 
この時の母親の行動心理を、「無償の愛」と呼んでも差し支えないのか。
 
先のアンケートで確認できたように、私たちの多くは、「親の愛情」を「無償の愛」と呼んでいるのだ。
 
「子供の為になるなら命も犠牲にすることが母親の愛である。この母親の愛は見返りを求めてはいない。子供に対して将来の恩返しなど、微塵も期待することなく愛を注いでいる。これが『無償の愛』である」(「無償の愛が真実の愛である。見返りを求めるから恋愛関係は続かない」・サイトより)
 
恐らく、こういう意見が「無償の愛」の定義の大半であると言っていい。
ここで、「無償の愛」について、私の考えを記したい。
 
もとより、私の定義によると、「愛」とは「援助感情」である。
 
もっと書けば、「援助感情」とは、「特定他者を援助し、救うことが、自我を安寧に導く感情」であるという把握が、私の中で措定(そてい)されている。
 
思うに、人は「愛」に包まれていると幻想するとき、援助しなければならないから援助に走る訳ではない。
 
援助せずにはいられなくなるから、自分にとって何よりも重要な存在である特定他者の援助に動くのだ。
 
内側から駆り立てて止まない感情が身体を突き動かし、煩悶を燻(いぶ)り出すのである。
 
規範や倫理で駆り立てられた身体は、契約感覚でしか動かないし、また動けない。
 
無論、「愛」は契約ではない。
 
「愛」とは、援助に引っ張られていく人格の内側に継続された、極めて形成的な感情である。
 
援助を内的に必然化した時間の中でこそ、「愛」は輝きを増すのだ。
 
従って、「無償の愛」とは、この母子の例でいえば、「我が子可愛さの愛」が心理的推進力となって援助に動く。
 
それも、必死に動く。
 
必死になって援助に動く根柢でダッチロールしているのは、不安を抱えて定まらない情感系の激しい揺動感覚である。
 
なぜなら、我が子の存在それ自身が、自らの「自我の安寧の絶対的基盤」であるからだ。
 
だから動く。
 
即ち、この母親の「無償の愛」の内実とは、「我が子可愛さの愛」が「自我の安寧の絶対的基盤」になっているからである。
 
「我が子可愛さの愛」の様々な表現総体が「ギブ」と化し、「自我の安寧の絶対的基盤」という「テイク」を確保する。
 
「無償の愛」とは、言葉が不適切かも知れないが、「ギブ&テイク」という心理的構造になっているのである。
 
「赤心慶福」という言葉がある。
 
偽りなき心で、他人の幸福を素直に喜べる感情、という風に解釈される。
 
その意味で、「我が子可愛さの愛」を存分に持つ件(くだん)の母親の「愛」は、「赤心慶福」に満ちている。
 
しかし、「ギブ&ギブ」というイメージを有する「無償の愛」が、「見返りを求めない愛」と言い切れるのだろうか。
 
私は、そうは思わない。
 
与え続ける「愛」のみで、この母親が我が子を案じ、不安に駆られたのではないのだ。
 
繰り返し言及しているように、この母親は我が子の存在が、「自我の安寧の絶対的基盤」になっているから動いたのである。
 
この行動は、「自我の安寧の絶対的基盤」を絶対的に確保するためだった。
 
だから、「ギブ&ギブ」ではなく、「ギブ&テイク」という心理的構造を成している。
 
しかし、「無償の愛」=「見返りを求めない愛」という幻想を否定する必要もない。
 
一切が幻想だから、このような「心地良き特別な体験」を「特定的な何か」として、自我のうちに「心理的取り込み」をする肯定的な絡繰(からく)りもまた、捨ててはならない大切なものだからである。
 
(この辺りの思考は、近年、私の中で変容した)
 
ここで、重要な指摘をしたい。
 
「テイク」の幅が広がると、「テイク」の内的欲求が「ギブ」の欲求水準を高め、「ギブ」を膨張させていく。
 
この現象が「過保護」になる。
 
また、「テイク」の幅が狭まると、「テイク」の内的欲求が「ギブ」の欲求水準を萎(しぼ)ませ、「ギブ」の水準をも縮ませていく。
 
厄介なのは、この現象が、「ギブ」と「テイク」の関係を曖昧にさせていくということである。
 
この現象が際立っていくと、「ギブ」の対象人格である特定他者との自他の判別に靄(もや)がかかり、曖昧になっていくことだ。
 
自他の判別が曖昧になっていく心的現象は、「ギブ」の対象人格である特定他者への人格性の総体の価値基準を低下しさせ、いつしか、「自己基準」の範疇のうちに「心理的取り込み」をする関係構造が生まれやすくなる。
 
この現象が「過干渉」になると、私は考えている。
 
だから、特定他者の人格性を縛ってしまう危うさを持つ「過干渉」に比べれば、親の顔を見ながら児童期を繋ぐ決定的な瑕疵がない分だけ、豊富過ぎる「愛」で我が子を包摂する、「過保護」による「ギブ&テイク」の方が数段、マシであると考えざるを得ないのである。
 
 

心の風景  「無償の愛」という幻想の本質は「ギブ&テイク」である よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/09/blog-post_13.html