映像化された「語りもの」の逸品が、奇跡的な「復讐・再会譚」として炸裂する

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1  「盗賊の群れが津波のように荒し回らぬ夜はない」
 
 
  
 
網野善彦(中世日本史を専攻する歴史学者)が提唱した「荘園公領制」という重要な概念がある。
 
貴族や寺社、豪族などの私有地である荘園の広がりによって、律令国家の理想である「公地公民制」(全ての土地と人民が天皇に帰属するとした制度で、大化の改新によって始まったとされる)が崩壊し、繰り返し荘園整理令が出されても、平安末期になると、荘園と公領の区別すら困難になる。
 
漸(ようや)く、厳格な荘園整理令が遂行された結果、荘園と公領の区別が明瞭な土地制度が成立することによって、荘園と公領を基盤とした重層的な土地支配構造が確立する。
 
これが「荘園公領制」である。
 
しかし、武力を背景に台頭してきた武士が、「摂関家」(摂政・関白の地位を占有した最高位の貴族の家系)や皇室の権威を軽視するに及び、徐々に公領・荘園が侵略され、消滅してゆき、豊臣秀吉の「太閤検地」(検地奉行が全国の土地を検査し、帳簿を作り、土地の価値を、収穫した米の数量である石高で表した)の実施によって、「荘園公領制」による重層的な土地支配構造の矛盾は解消されるに至る。
 
従って、12世紀に起こった「保元の乱」・「平治の乱」(後白河天皇崇徳上皇の分裂に、源氏と平氏の武力が加わった政変)を通じて、武士の政治的地位が上昇し、平安時代末期の時代背景は、東国の支配権、軍事警察権を獲得し、朝廷から独立した地方政権へと成長していく頼朝以降の武家政権が確立するまで、勢力の拡大のための境界を巡る争いが多発し、全盛期の平安貴族の煌(きら)びやかさと対照的に、成人でも、平均寿命が30歳にも満たない農民の暮らしは苦しく、流民も増え、板を打ち付けただけの「掘っ立て小屋」で生活していたとされている。
 
「戦、地震、辻風、火事、飢饉、疫病(えやみ)・・・来る年も来る年も災いばかりだ。その上、盗賊の群れが津波のように荒し回らぬ夜はない。わしもこの眼で、虫けらのように死んだり、殺されたりしていく人をどのくらい見たか分らん」(「辻風」とは、つむじ風のこと)
 
これは、黒澤明監督の名作「羅生門」の中で、旅法師が洩らした慨嘆である。
 
また、売買の対象とされた賤民の身分である「奴卑」(ぬひ/奴は男子、婢は女子のこと)は、平安時代前期まで存在していたが、「奴婢」の制度が崩壊しても、「譜代下人」(ふだいげにん/人身売買によって獲得された零細民がルーツ)という言葉があるように、平安時代末期の社会秩序の崩壊と共に、「子捕り」と称する略取が横行し、人身売買も増え、日本中で機能していたのは事実である。
 
もっとも、80万人がいると言われる、ミャンマーイスラム少数民族ロヒンギャ」の人身売買が横行する現象を考えるとき、世界各国で横行する人身売買の問題が、現代の闇を照射していると言えるだろう。
 
まさに、「盗賊の群れが津波のように荒し回らぬ夜はない」ということか。
 
 
 
2  文字を読めない貧民層の共感を生み、存分なカタルシスを保証する「勧善懲悪」の「説経節
 
 
 
中世をルーツにする口承文芸である、「語りもの」として庶民の人気を集めた「説経節」(せっきょうぶし)。
 
その芸能の淵源が仏教における唱導や説経であったが、仏教教義に収斂される宗教性の濃度の高さよりも、「戦、地震、辻風、火事、飢饉、疫病」、そして、「子捕り」による人身売買の横行に苦しめられていた中世の民衆の悲惨な現実を写し取った、極めて情念性の強い物語と化して、時代を超えて繋がれていく。
 
耳を傾ける聴衆もまた、文字を読めない貧民層が多く、「語りもの」の主人公の悲惨な現実に、自らが置かれた境遇を感じ取って、物語の「約束された復讐譚」に過剰なまでに同化し、嗚咽を漏らしながら聞き入っていたと言う。
 
物語に過剰に同化する貧民層の反応の本質は、心理学で言う「同質効果」の作用であると言っていい。
 
「語りもの」である「説経節」での物語の内実が、自らの精神状態に近いが故に、感情移入(ミラーニューロン=共感感情)しやすくなるのである。
 
この「説経節」の中でも、「さんせう太夫」は「五説経」と呼ばれた有名な演目の一つだった。
 
これが、森鴎外の「山椒大夫」という、とっておきの「約束された復讐譚」の世界に昇華されて、時代を超えて繋がれていくのだ。
 
因みに、虐げられた民衆の怨念の炸裂でもあった「さんせう太夫」で描かれた、「説経節」に濃厚な残虐性を薄めて小説化した鴎外の「山椒大夫」の物語とは、安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)の姉弟を人買いから譲り受け、徹底的に酷使した丹後の豪族・山椒太夫の荘園から奴隷を解放し、同様に人質になり、盲人となった母親に再会するというヒューマニズムの感動譚。
 
当然ながら、溝口健二監督による映画「山椒大夫」は、鷗外の原作をベースに独自の作品を構築する。
 
元々、「語りもの」である「説経節」の文脈を受け継ぐが故に、悪の権化・山椒大夫の荘園から逃亡した厨子王によって山椒大夫が復讐されるという、「勧善懲悪」の類型性のカテゴリーから脱却できない物語となった。
 
それ故、「勧善懲悪」という類型性のカテゴリーの制約が、「展開のリアリズム」の瑕疵を生むのは必至だった。
 
その象徴的な挿話が、「さんせう太夫」の残酷な要素を部分的に包括した「奇跡の復讐譚」に集約されるだろう。
 
丹後国の国守となった厨子王が出した高札に、公の領地や荘園を含む奴婢を完全解放し、居つきたい者には田畑を与えるという、殆どあり得ないようなエピソードは、「展開のリアリズム」の瑕疵の極点である。
 
でも、それでも良かった。
 
観る者が、かつての文字を読めない貧民層の聴衆のように共感し、存分なカタルシスを被浴するからである。
 
そして、このような「展開のリアリズム」の瑕疵を補填した技巧が、「描写のリアリズム」だった。
 
これが、悲惨で残酷な場面の多用の理由である。
 
しかし、復讐から奇跡的な再会譚の物語の本質が、一貫して、「勧善懲悪」のカテゴリーに収斂させていく約束事から免れないならば、「描写のリアリズム」による補填の意味は、「語りもの」としての「説経節」の情念性の強度を高める効果にしかならないだろう。
 
要するに、「説経節」の情念性の強度を高める効果に収束される、究極の「勧善懲悪」の物語の根本的な性質と内部要素が堅固に保持されている限り、艱難辛苦(かんなんしんく)の挙句、「善人が栄え、悪人は滅びる」という、極めて凡庸で俗っぽいコンテクストとして映像化されざるを得ないのである。
 
「同質効果」と存分なカタルシス
 
もう、この濃厚なテイストで充分なのである。
 
だから、私にとって、この作品は、映像化された「語りもの」の逸品が、奇跡的な「復讐・再会譚」として炸裂する、侵しがたいラインの範疇に集約する何かだったのだ。
 
 

心の風景  映像化された「語りもの」の逸品が、奇跡的な「復讐・再会譚」として炸裂する よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/09/blog-post_19.html