日本国憲法の「平和主義」 ―― その「ダブルバインド状況」の居心地の悪さ

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1  「ダブルバインド状況」の破壊力
 
 
 
アメリカの文化人類学者・グレゴリー・ベイトソンは、戦後まもなく、精神病棟でのフィールドワークで、患者さんの心身に惹起するプロセスの変化に注目し、その貴重な経験から「ダブルバインド理論」という、今では普通に使用されている重要な仮説を提示した。
 
主著の「精神の生態学」(思索社)で集大成される「ダブルバインド理論」を簡単に言えば、人間が二つの矛盾するメッセージを与えられると、思考停止状態に陥るという仮説である。
 
二つの矛盾するメッセージとは、第一のメッセージと、そのメッセージと背馳(はいち)する第二のメッセージ=「メタメッセージ」のこと。
 
例を挙げてみる。
 
ごく「普通」の成績の我が子に対して、「勉強より、部活をサボらない元気な子の方がいいわ」という、極めて微妙なメッセージを与え続けていた母親が、部活にのめり込んで、定期考査で成績が「普通」より下がっただけで、息子の成績に不安になり、「成績が下がったのは部活のせいよ。もっと勉強しなさい!元気なだけでは落ちこぼれるわよ」という、矛盾する「メタメッセージ」を与えるような状態である。
 
「勉強より、部活をサボらない」と「部活より、勉強をサボらない」。
 
この二つの矛盾するメッセージが与えられた息子が、母親が最初に提示した要請に従うと、想像だにしない叱責を受け、最初の提示と矛盾する行為に振れると、今度は、それを否定する叱責を受けることになる。
 
元々、母親は「ごく『普通』の成績」を求めていたにも拘らず、ごく「普通」の成績が少し下がっただけで、「勉強しなさい!元気なだけではダメ」という「メタメッセージ」を受けた息子の自我は混乱し、「一体、どうすればいいんだ」という不満が累積するだろう。
 
しかも、「ごく『普通』の成績」という基準を全く提示せず、常に、母親からの恣意的判断に拠っているから厄介なのだ。
 
だから、本人の焦りがあり、部活をサボって、勉強ばかりの生活を続けていると、「体を壊すわよ、そんな生活」と言われると、息子の混乱は増幅するだろう。
 
母親からの二つの「要請=命令」を、同時に遂行することは不可能となり、この「要請=命令」を受けた息子は混乱を来す状況 ―― これが「ダブルバインド状況」である。
 
ダブルバインド状況」の破壊力が、ここに垣間見える。
 
ここで重要なのは、「ごく『普通』の成績」を望んでいるという母親の本音を、息子が理解できるか否かにかかっているということに尽きる。
 
それが理解できれば、十分に対応可能なのである。
 
要するに、「ごく『普通』の成績」さえ維持できれば、何をやってもいいということ ―― 「部活自由・勉強自由」なのだ。
 
ここでの、二つの矛盾する「要請=命令」に隠し込まれた共通のメッセージは、「ごく『普通』の成績」の保持であるという事実だった。
 
そして、「ごく『普通』の成績」の保持の内実が、現時点での成績の平均値を顕著に下げなければ問題がないと読み取って、自分もまた、成績の顕著な低下を恐れるので、成績の平均値を継続できるように努力していけばいい。
 
そんな風に考えられれば、恐らく、「ダブルバインド状況」に搦(から)め捕られないだろう。
 
こういう子供は、ダブルバインドの「二重拘束状況」に縛られることなく、自己判断で「部活自由・勉強自由」の日々を繋ぐことができると言える。
 
―― ここから、本来のテーマについて言及していきたい。
 
日本国憲法の制定・運用過程における、我が国の「ダブルバインド状況」の「あれもできず・これもできず」という、極めて深刻なテーマである。
 
以下、稿を変えて考えみる。


 
2  「究極の理想主義」である「憲法前文」の基幹メッセージ
 
 
 
日本国憲法が、「国民主権」・「基本的人権の尊重」・「平和主義」という「3原則」によって成る事実を、中学の「公民」で習うことは誰でも知っているだろう。
 
「公民」の授業の重点が、日本国憲法についての学習であるという事実もまた、遍(あまね)く知られているところである。
 
この「3原則」の中で言及するのは、様々な論議を呼ぶ「平和主義」の問題である。
 
私塾の経験から書くが、「公民」を教えていた時、「『平和主義』なのに自衛隊がどうして存在するのか」について聞かれることがあった。
 
解釈が難しい「芦田修正」(後述)について説明するわけにはいかず、こんな風にレクチャーしたように思う。
 
「日本は侵略戦争で敗北したので、その代償に他国への侵略が禁じられているけど、他国からの侵略があったら、それを守るための国家組織が自衛隊だ。だから、我が国を防衛する軍隊なんだよ。そこには矛盾があるので、自衛隊の存在を、はっきりと憲法に定義する必要があると思うよ」
 
かなり踏み込んだ説明だが、「大人になったら、自分の頭で考えることが重要だよ」などと言って、限りなく客観的に、教科書に沿って「公民」の勉強を続けていたことを思い起こす。
 
この見解は基本的に変わらないので、以下、「平和主義」を標榜する日本国憲法の成立・運用過程について考えていきたい。
 
―― 「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、及び、自己の安全を保持するための手段としてのそれも放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、且つ、交戦権を日本軍には決して与えられない」
 
これは、憲法草案制定会議の責任者・ホイットニー民政局長に示した、あまりに有名な「マッカーサー・ノート」に記された、憲法草案の第2原則の内実。
 
「自己の安全を保持するための手段としてのそれも放棄する」というマッカーサーの言辞の持つ意味は、驚嘆すべき破壊力を持っている。
 
なぜなら、ここでマッカーサーは「自衛権」をも放棄しているからだ。
 
なぜマッカーサーは、こんな言辞を放つに至ったのか。
 
最も考えられるのは、東京裁判(1946年5月3日から1948年11月12日までの、2年間半に及ぶ軍事裁判)の開廷直前の状況下にあって、昭和天皇の退位・訴追を強硬に求める戦勝国の一部を納得させるための方略であったということである。
 
既に、この基本指針は、天皇を利用することが戦後日本の体制の安定に繋がると考えていた、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの占領統治戦略、及び、ラディカルな改革(軍隊機構の解散・政治的自由の承認・農地改革・財閥解体など)に収斂されるものだった。
 
しかし、「マッカーサー・ノート」を基に憲法草案の起草を依頼されたGS(GHQ内で占領政策の中心を担ったリベラリストの集団・「民政局」)局員、とりわけ、局長代理(後に次長に昇任)のニューディーラーであるケーディス大佐は、この原案を修正して、「自衛のための戦争の放棄」を削ったという経緯がある。
 
思うに、この「マッカーサー・ノート」を、GHQ民政局長・ホイットニーが、自らを含む4人には弁護士経験があったものの、憲法学の専門家ゼロという信じ難き集団である民政局員25人と協力して、世界各国の憲法、更に言えば、憲法研究会の「憲法草案要綱」(日本の民間憲法草案)などを参考にしながら、日本人立ち入り厳禁の密室状況下で、僅か1週間でまとめたのが「マッカーサー草案」だった。
 
ここで、色々取り沙汰されることが多い、憲法研究会の「憲法草案要綱」について簡単に書いておく。
 
民間の立場から憲法制定に尽力し(左派の憲法学者鈴木安蔵が起草)、新聞に発表された憲法研究会の「憲法草案要綱」では、現憲法の基本原則の一つである「国民主権」の思想が明瞭に記述されていて、マッカーサー草案に多大な影響を与えたとされているが故に、今でも、「押し付け憲法論」を批判する論拠になっている事実を認知するのに吝(やぶさ)かではない。
 
但し、憲法草案作成のプロセスに係合することが不可能だったという由々しき問題や、草案の中に「交戦権の放棄」についての言及がなかったことを想起するとき、当時の日本共産党自衛権の放棄を非難し、第9条に反対した挙句、議決にも賛成しなかった事実とオーバーラップするスタンスであったと言えるだろう。
 
ここで問題にしたいのは、日本国憲法の「三原則」(特に「国民主権」・「平和主義」)が提示されている「憲法前文」の文面である。
 
以下、日本国憲法の条文の前にあり、誰が読んでも感動すると言われる「憲法前文」の全文である。
 
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
 
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」
 
一瞥する限り、特段の問題があるように見えないが、よくよく読めば、極めてオプチミズム全開の、「究極の理想主義」に彩られる文面に、正直、驚かされる。
 
中でも、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という表現は、まさに「究極の理想主義」そのものであり、本気でこんな国民国家を標榜(ひょうぼう)するのかと思うと、ゾッとする。
 
この「憲法前文」が、アメリカ合衆国憲法・米独立宣言(1776年)・リンカーンゲティスバーグ演説(1863年)・米英ソ首脳によるテヘラン宣言(1943年)・米英首脳による大西洋憲章(1941年)などの継ぎ接ぎ(つぎはぎ)という、駒沢大学名誉教授の憲法学者西修(にしおさむ)の指摘もある。
 
何より、この前文の最大の問題点は、後半の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という表現に尽きる。
 
なぜなら、この「究極の理想主義」が具現化するには、世界(諸国=多くの国々)には「平和を愛する諸国民」に満ち溢れていて、「公正と信義」に依拠する国家であるという事実が絶対条件になるからである。
 
そして、その「平和を愛する諸国民」の「公正と信義」に対して、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」と言い切ったのである。
 
このことは、我が国の固有の領土である尖閣諸島への領海侵犯を繰り返す中国や、「核兵器で日本の4つの島を海に沈める」と恫喝する北朝鮮の「公正と信義」を信じ、「われらの安全と生存を保持=委ねる」ことが、「憲法前文」の基幹メッセージになっているのだ。
 
これが、「憲法前文」が「究極の理想主義」である事実の所以なのである。
 
 

時代の風景 「日本国憲法の『平和主義』 ―― その「ダブルバインド状況」の居心地の悪さ」 より抜粋http://zilgg.blogspot.jp/2017/09/blog-post_30.html