グループセラピーの生命線が、「野獣」と呼ばれた「怖いもの知らず」の若者の心を掬い上げていく

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1  「愛着の形成」なしに、ごく普通のサイズの自我形成は望めない
 
 
  
 
胎児は人間の全ての感覚・意識・記憶力・感情を備えていて、既に自我のルーツが、9週目以降・出生までの胎児期にあることを論証したのはトマス・バーニー(アメリカの精神分析医)である。
 
受胎から出産に至る段階での母親の精神状態が乳幼児の発達に大きな影響を与え、その成長過程を左右するという仮説は、現在の時点で相当の説得力を持っている。
 
これは、ハンガリー出身の米国の精神科医・マーガレット・マーラーや、ウィーン出身の女性精神分析家で、英国を代表するメラニー・クラインらの研究においても検証されている。
 
例えば、メラニー・クラインが言う、「良いおっぱい・悪いおっぱい」という仮説は極めて興味深い。
 
即ち、2~3カ月の乳児にとって、母親のイメージは、「おっぱい」という身体部分の視座しかなく、これは、「良い母親」と「悪い母親」との分裂した対象として捉えられている状態を意味する。
 
しかし、その子の思いを汲み取って、常に満足を与えてくれる「良い母親」と、その子の非を咎(とが)め、思い通りにならない「悪い母親」の両方を経験する中で、子供は次第に自分と他者の違いに目覚め、分裂した母親のイメージが、「良いおっぱい・悪いおっぱい」のいずれも、実は、「一人の母親」であるという理解のうちに統合されていくと言うのである。
 
生後半年後辺りまでに前頭葉が形成され、3才頃に発達し(自我の目覚め)、7、8才頃にほぼ完成し、25才頃にピークを迎え、あとは萎縮していく。
 
但し、前頭葉には可塑性(変化可能性)があり、自我の確立運動が活発化する思春期での、適応的に十分な環境の中で、成人期に繋がる「人格」の形成が可能である。
 
また、自他の区別ができるためには、外界を認識する感覚器官の発達が必要だが、胎内にいる時から、外界からの刺激に反応する事実は、今や定説であると言っていい。
 
「思春期社会脳の成長と発達」(相原正男)という研究論文によると、認知・行動発達を前頭葉機能の発達と関連させながら考察してみると、その発達の順序性は、まず行動抑制が出現することで外界からの支配から解放され、「表象能力」(イメージ喚起能力)が形成される。
 
そして、順次、「ワーキングメモリー」(情報を保持・処理する能力)・「実行機能」を手に入れていくのである。
 
だから、自我の確立運動が活発化するに足る適応的に十分な環境の確保が、如何に重要な前提条件になっていることを認知せねばならないだろう。
 
即ち、「母親の愛」、即ち、「愛着の形成」(人に対する基本的信頼感の獲得)なしに、ごく普通のサイズの自我形成は望めないということである。
 
母親がいなければ、父親が代行する。
 
両親ともにいなければ、親に代わる他の大人が「養育者」として代行する。
 
英国の精神分析家・ジョン・ボウルビィは、生後半年頃より2歳頃までの期間に、「養育者」に対する幼児の「愛着の形成」が起こり、この期間での「愛着関係」が成立していないと、発達の遅れが見られる「母性的養育の剥奪」という仮説を提示した。
 
ところが、まれに、「愛着の形成」を具現する大人の不在・非在によって、ごく普通のサイズの自我形成・確立に頓挫した、同情するとしか言いようのない子供がいる。
 
残念ながら、「光市母子殺害事件」の犯人である18歳の少年Fのように、件の子供に対する同情(「愛着関係」の未成立=父親の虐待行為・母親の自殺)は、青春期に踏み込んでしまうと殆ど希釈され、「原則逆送」(刑事処分を相当として家裁から検察に送致すること)される運命を負うことになる。
 
私自身、裁判での死刑判決に特段の違和感がないが、この視点を無視すると、「犯罪少年」=「悪魔の子」という、ラベリングの陥穽(かんせい)に押し込むことになるだろう。
 
―― ジャック・オコンネル主演のイギリス映画・「名もなき塀の中の王」(デヴィッド・マッケンジー監督)の主人公・エリックこそ、そんな子供の典型であった。
 
以下、「名もなき塀の中の王」のエリックの心理の変化についてフォローしていきたい。


 
2  「刑務所内暴力」と、その「非日常の日常化」の危うい時間の中で「態度変容」の可能性を探っていく
 
 
  
 
映画はエリックの乳幼児期を描かないが、「5歳の頃、あんたの膝の上で、夫婦喧嘩を聞いたな」という実父に対する否定的言辞や、「幼児期に施設に入れられた」という自分の生い立ちの吐露を想起すれば分るように、彼の自我形成が頓挫する環境下に捕捉されていた事実は、映画の中で繰り返し提示される。
 
エリックが「生まれつきの乱暴者」である訳がないからである。
 
暴力それ自身が、他者との唯一のコミュニケーションと化しているかのようなエリックに、一体、何が可能であったと言うのだろうか。
 
「愛着の形成」なしに、まるで、「転落人生」を約束されたエリックが、ごく普通のサイズの自我を確立した「大人」になる可能性は殆ど困難である。
 
だから、未成年であるにも拘らず、少年刑務所ではなく(日本には7施設)、成人刑務所(日本には67施設)に移送されて来た。
 
少年院から成人刑務所へと移送されてきたエリックの暴力性の根柢にあったのは、これまで言及してきたように、「愛着の形成」を具現する大人の不在だった。
 
自我の確立運動が活発化するに足る、適応的に十分な環境の確保がなかったが故に、19歳のエリックの自我に張り付いているのは、自己を守るための暴力的武装以外になかったのである。
 
自分を守るための武器を、天井の蛍光灯の裏に隠す。
 
腕立て伏せを繰り返し、自己を武装するエリック。
 
敵愾心(てきがいしん)を持たない囚人が、自分の独居房に入って来るや、誤って暴行事件を起こしたエピソードに象徴されるように、エリックの攻撃的反応は、彼の過剰防衛反応が発現した典型的行動だったのだ。
 
更に、成人刑務所で自己を守るために取った手段が、刑務官の急所を噛みついて離さないという、まるで、野獣を彷彿(ほうふつ)とさせる乱暴極まる行動だった。
 
そんなエリックの「野獣性」を希釈するために動いたのは、心理カウンセラーのオリバーである。
 
「治療がうまく効いて、もし俺が更生したら、あんたたちは次々と同じ治療を施す。いいのかよ、警察はパクる奴が減るし。裁判官もヒマだ。そうなりゃ、あんたたちは失業だぜ」
 
どこまでも自分の弱さを認めないエリックには、このような物言いしかできないのである。
 
だから、グループセラピーのセッションに参加させようとするオリバーの誘いに、エリックが簡単に乗らないのは当然だった。
 
堅固な問題意識を有するオリバーは、「プロボノ」(社会貢献するボランティア活動)でグループセラピー(集団心理療法)を主宰し、粘り強く働きかけて、黒人囚人たちの中にエリックを参加させるに至る。
 
度重なる暴行事件を犯しても、「怖いもの知らず」のエリックを、グループセラピーの仲間だけは何とかサポートするのだ。

心の風景  グループセラピーの生命線が、「野獣」と呼ばれた「怖いもの知らず」の若者の心を掬い上げていく よりhttp://www.freezilx2g.com/2017/10/blog-post_20.html