1 「恐怖支配力」は不幸という集合的イメージを喰い尽くす
「明日」を考えることは、絶望の濃度を一日分深めるだけであり、「過去」を思うことは悔恨の念を増幅させるだけだった。
だから、私の想像力は、「今・このとき」の痛みを緩和する薬を飲むことであり、固定された体が許す視界が収まる無機質な風景を嗅ぎとること以外ではなかった。
未だ、「眼窩(がんか)周辺骨折」の恐怖が、私の総体に蜷局(とぐろ)を巻き、脱出口を塞(ふさ)いでいた。
痺れの恐怖が、私の神経系を覆い尽くしている。
援助を求める悲鳴を上げても、何も動かない。
何も動かないが、動かない事態に愚痴を零(こぼ)しても、全く意味がない。
一切は、私の人生の問題なのだ。
痺れの恐怖と折り合いがつけられない。
それでも、動かねばならない。
自らが動かねば、私は終わる。
人生は、実に呆気ないものだ。
その精神が必要であると括った者が、それを必要とするに足る時間の分だけ、自らを鼓舞し続けるために、「逃避拒絶」のバリアを自分の内側に構築する。
これ以上、逃避できないというギリギリの状況の中で、その時間を耐え抜き、そこで生まれた不都合な〈状況〉に適応していく。
それを私は、「覚悟」と呼ぶ。
言葉を変えれば、「覚悟」とは、自分を囲繞する不都合な〈状況〉に対して心構えをし、適切な対応を取るための精神的態度のことである。
このような「覚悟」なしに、不都合な〈状況〉の中枢で「逃避拒絶」のバリアを構築できなかったら、自尊感情を高められず、流れに身を任せる仮構の人生に翻弄されるだけだろう。
突入するには「覚悟」がいるのだ。
「覚悟」なき者は、何をやってもやらなくても、既に、決定的なところで負けている。
できれば、その内側に「胆力」という重石を乗せておく必要がある。
「恐怖支配力」こそ、「胆力」という概念の本質であるからだ。
不安に耐える力。
これが、人間の強さの本質である。
思うに、イメージが無秩序に自己増殖してしまうから、不安の連鎖が切れにくくなる。
イメージの自己増殖が果たす不安の連鎖によって、いつしか、人は予想だにしない最悪のイメージの世界に押し込まれてしまうのである。
最悪のイメージに押し込まれた自我が、そこで開き直る芸当を見せるのは、とても難儀なのだ。
そこに澱んで、自らを食(は)んでしまう恐怖から、一体、誰が生還できると言うのだろうか。
全ての不幸が不幸の現実からではなく、「不幸」であるという、自我なる厄介なものに張りついた集合的なイメージによって、いつも、其処彼処(そこかしこ)に潜り込んでいる。
「恐怖支配力」は、この集合的なイメージを喰い尽くす。
不幸という集合的なイメージが感情に束ねられていく。
「不幸」であるという集合的なイメージが、「不幸」の全てなのである。
「胆力」という重石を乗せる「恐怖支配力」を、自らの中枢に構築することは容易ではない。
人間は本質的に脆弱であるからだ。
出口を塞がれ、有無を言わせず、「生き死に」の極限状態に閉じ込められたら自我が凍りつき、緊急スイッチを入れられず、同調バイアスによる「非常呪縛」という、自己防衛的な「無思考状態」に陥ってしまう現象が現れやすくなる。
これを「凍りつき症候群」と言う。
人間が正常な判断ができなくなる心理状態のことである。
最も肝心なところで、呆気ないほど、人間は脆弱性を露呈してしまうのである。
人間とは、そういうものなのだ。
それでも、「不幸」であるという集合的なイメージを喰い尽くす「恐怖支配力」を構築せねばならない。
壊れゆく日々に、人は何ができるか。
日々に崩れゆく、〈私の生〉のあられもない相貌を凝視することの圧倒的不快感。
しかし、恐怖突入する。
もう、それなしに済まないからである。
恐怖突入することなしに、私の人生が立ち行かなくなってしまった。
一切は、私の人生の再構築のためなのだ。
心の風景 「壊れゆく日々に、人は何ができるか その2 」http://www.freezilx2g.com/2017/12/blog-post_21.html より