「雪の二・二六」 ―― 青年将校・その闘争の心理学

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1  観念系で動く青年将校の支配の力学を超えていた
 
 

昭和10年8月12日、一人の男が陸軍省内の軍務局長室に押し入って、入室するや否や抜刀して、そこにいた軍務局長を袈裟懸けに斬り殺した。

 
斬殺された者は、永田鉄山少将。
 
時の軍務局長で、当時の軍部官僚派をリードしていた統制派の実力者でもあった。
 
 
現役の陸軍中佐であり、このとき台湾への転出命令を受け、その赴任先に向かう途中の凶行だった。
 

信じ難いことに、相沢中佐は事件後も平然と台湾に出向する意志を持ち、捕縛されるまで一貫して冷徹な態度を崩さなかった。

 
それは、当時の軍部内の異様な空気を示すのであり、その空気はまもなく、昭和史最大のクーデター未遂事件に集中的に流れ込んでいったのである。
 
そのクーデターを起こした青年将校たち合言葉こそは、「相沢に続け」というものだった。
これが世に言う「相沢事件」である。
 
その合言葉のもと、青年将校たちが流れ込んでいったクーデター未遂事件 ―― 言うまでもなく「二・二六事件」である。
 
「雪の二・二六」と呼ばれる形容の内に、既に過剰な感傷詰まっている、陸軍の青年将校らが兵営を出発したのが午前4時すぎで、首相官高橋是清大蔵大臣邸・渡辺錠太郎陸軍教育総監鈴木貫太郎侍従長邸・牧野伸顕内大臣への湯河原旅館別荘・総理大臣官邸・警視庁・陸軍省参謀本部陸軍大臣官邸・東京朝日新聞などの襲撃・占拠終了したのは、ほぼ午前7時頃と言われている。
 
東京降雪が5日間もあった昭和11年2月は、2月22日に、台湾の北東海上に発生した低気圧が発達しながら本州南岸を進み、関東地方に記録的な大雪をもたらした。
 
東京に大雪をもたらした南岸低気圧は、2月22日以降も積雪が続き、二・二六事件」の当日には12.6cmの積雪量があった。
 
中央気象台(現在の気象庁)によると、東京で雪が降り始めたのが午前8時頃。
 
即ち、未遂事件に終わったクーデター時には降雪がなく、「雪の二・二六」という物騒な叛乱の幕が上がったのは、決起成功後の新たな陣立てを整えていた時間帯だった。
 
しかし、これほどまでに冷夏が続く昭和日本の冬は、1930年から1931年に発生した「やませ」(夏に吹く冷たい北東寄りの風)によって冷害が深刻化し、米と繭(まゆ)の生産収入によって成る北日本の農村が疲弊し、農業恐慌がピークに達していた
 
日本史上初の「豊作飢饉」で、「昭和東北大凶作」と呼ばれる農業恐慌である。
 
この「昭和東北大凶作」の影響で都市失業者が帰農したことで、半ば飢餓状態に陥り、「欠食児童」や女子の身売りが深刻な問題となっていく。
 
その後、景気は回復局面に入った北日本の冷夏は続き、農村疲弊には特段の変化がなかった。
「二・二六事件」青年将校の多くは、このように疲弊し切った東北の農村出身者だったと言われるが、これは明瞭な事実誤認である。
 
「二・二六事件死刑判決を受けて処刑された青年将校(野中四郎大尉と河野壽大尉は自決)・民間人陸軍省発表では「常人」とされた)ら19人のうち、東北農村出身者は、青森県出身の対馬勝雄(つしまかつお)歩兵中尉のみである。(この19人の中には、自ら死刑を求めた民間人の弁理士・水上源一も含む)
 
因みに、山形県鶴岡市が本籍の林八郎少尉は東京市に生れていて、皇道派青年将校グループの中心人物・村中孝次、北海道旭川市出身であり、福島県若松市に生まれた渋川善助(しぶかわぜんすけ)思想家であって、青年将校ではない。(但し、下士官・兵の多くは農村出身)
ついでに言うと、佐分利信監督による傑作「叛乱」でも、青年将校決起の背景に、「昭和東北大凶作」による農村疲弊にあった事実を描いている。
 
最後まで決起への参加を迷っていた安藤輝三歩兵大尉(細川俊夫)が、帰属部隊に戻った際に、一人の上等兵(鶴田浩二)がやって来た。
 

彼は茨城出身のラッパ兵で、故郷の農村の厳しさを訴えた後、上官に対してきっぱりと言い放ったである。

 
「立ち上がって、農民を救って下さい」
 
この時代の農村の窮状を理解する安藤は、静かにその言葉を受容した。
 
これが、全反乱部隊の総兵力の60%が参加した安藤輝三の決起の、その心理的背景のコアになっているエピソードを挿入していた。
 
しかし、「昭和東北大凶作」で疲弊した深刻な農村問題は、どこまでも、皇道派青年将校決起趣意書のうちに収斂されるスローガンの域を超えていないのだ
 
万民の生成化育(せいせいかいく・万物を生み育てていく)を阻碍(そがい・妨げること)して塗炭(とたん)の痛苦を呻吟(しんぎん)せしめ」(万民の生活を塗炭の苦しみに追いつめている)。
 
 
もとより、欧米列強に対抗し得る「高度国防国家」建設を合法的に目指し、陸大出身者が主体で、軍中央を押さえた「統制派」に対して、陸大出身者が稀有の「皇道派」の観念系のコアには、天皇への絶対的信仰に拠って成る「天皇親政」の具現という理念があったので、一切は、この理念の膨張によって動いてい
 
これは、天皇は国家の一機関に過ぎないとする、明治憲法以来の解釈・「天皇機関説」を擁護したことで真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)と対立し、皇道派青年将校から憤激を買っていたリベラル系の渡辺錠太郎陸軍教育総監の殺害によって検証できる。
 
渡辺は同志将校を断圧(弾圧)したばかりでなく、三長官の一人として、吾人の行動に反対して断圧しそうな人物の筆頭だ、天皇機関説の軍部に於ける本尊だ」(ウィキ)
 
「行動記」での磯部の言葉である。
 
このように、皇道派青年将校に厭忌(えんき)されていた渡辺錠太郎は、坂井中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉率いる約150人の兵から襲撃され、40発以上の弾丸を浴びたばかりか、軍刀で頭部を切られ、止めを刺されるに至った。
 
青年将校らは、渡辺邸の表門から入るや、玄関前に機関銃を据えて乱射した後、室内に侵入して廊下から寝室に向け機関銃を発射したのである。
 
「機銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散っていた」(ウィキ)と述懐する次女・渡辺和子の証言を聞く限り、「二・二六事件」での重臣暗殺の凄惨さが伝わってきて、この事件の首謀者たちの多くが「反乱軍」とされ、「奉勅命令」を受け原隊復帰後も、「無罪」か「軽罪」で済むこと考えていた能天気さに呆れるばかりである。
 
だから、改めて書くが、彼らの親族が故郷飢えているから決起というような、至極単純な理由ではないである。
 
天皇から不興を買っていた眞崎甚三郎が、派閥の勢力伸張を図り、観念系で動く青年将校を利用したことで派閥間の対立が先鋭化した挙句、教育総監を罷免される。
 
この流れ皇道派青年将校が眞崎を担ぎ上げ、「天皇親政」の国家構築のための暴発を惹起するが、そこには、派閥抗争の難しい政治的思惑が絡み合っていて、とうてい、観念系で動く青年将校の支配の力学を超えていた
 
これは、青年将校決起急いだこと大い関係する。
 
多くの皇道派青年将校が含まれる、第1師団の満州派遣が内定したからである。
 
 
磯部浅一元陸軍一等主計や栗原安秀陸軍歩兵中尉は、そう考えた。
 
しかし、多くの部下を預かった責任があり(歩兵第3聯隊第6中隊長)、合法的闘争の道(相沢公判への関与)を模索し、決起を時期尚早と考えていた安藤輝三陸軍歩兵大尉が、事件直前の2月22日に参加決意たことで、匆卒(そうそつ)に、決起日を「二・二六」と決めるに至ったという事情があった。
 
互いの面識どころか、起趣意書の存在すら知らず、且つ、その内容も読んでいない青年将校が多かった事実によって判然とするように、決起を急いだため、横の繋がりが極めて希薄だった。
 
事を起こし、それを継続する組織として決定的に脆弱ったのだ。
 
この脆弱性の根柢には、「決起すること」のみが目的で、クーデター成功後は、「皇道派の将軍に、『天皇親政』の政権を樹立してもらう」という、極めて杜撰な「委託主義」の観念が横臥(おうが)していたのである。
 
確かに、「昭和東北大凶作」の影響で、「欠食児童」や女子の身売りが出来したという悲惨な現実への憤怒があったとしても、その思いも包括した陸軍皇道派昭和維新・尊皇討奸」を標榜(ひょうぼう)し、「天皇親政」を具現するために、元老重臣や政治腐敗の元凶・政財界の重鎮を暗殺する。
 
「我等同志は、将(まさ)に万里征途(ばんりせいと)に登らんとして而(しか)も省みて内の亡状(ぼうじょう)憂心転々禁(ゆうしんてんてんきん)ずる能(あた)はず。君側の奸臣軍賊(かんしんぐんぞく)を斬除(ざんじょ)して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能(よ)くなすべし。
臣子(しんし・臣下のこと)たり股肱(ここう・部下のこと)たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪(はめつちんりん)を翻(ひるがえ)すに由なし、茲(ここ)に同憂同志機(どうゆうどうしき)を一にして蹶起(けっき)し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕(ようごかいけん)に肝脳(かんのう・肉体と精神)を竭(つく)し以(も)つて神州赤子(しんしゅうせきし・我が神国の人民)の微衷(びちゅう・真心)を献ぜんとす」
 
(私たちは、日本破壊を阻止するために、日本国破壊の不義不臣を誅殺しました。君側の奸を、斬りたおすのは、我等の任だからです。私たちは、同憂の同志たちと機を一にして決起し、奸賊を誅殺して大義を正し、日本を守ります。皇祖皇宗の神霊、こい願わくば、照覧冥助を垂れ給わんことを)
 
この決起趣意書のうちに、皇道派青年将校らの決起の意思(注1)が直截に反映されている。
 
然るに、満州事変以後、顕著に喧伝(けんでん)されていく「天皇主権説」に依拠する、「天皇親政」の具現という皇道派青年将校らの思惑は、呆気なく崩される。
 
「朕が股肱(ここう)の老臣を殺戮す、此(かく)の如き凶暴の将校ら、何の恕(ゆる)すべきものありや」
 
この言葉に凝縮されているように、昭和天皇が、毅然とした態度で拒否したからである。
 
かくて、皇道派青年将校らの決起は「叛乱軍」という思いも寄らない絶対記号を被せられ、叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させるに至ったのである。
 
陸軍刑法第25条(注2)により、民間人を除き、事件の皇道派青年将校たちが銃殺刑に処されたのは、その年の7月った。
 
―― 皇道派青年将校らが1500名弱の下士官・兵を率いて起こしたクーデター未遂事件後、「統制派」に一元化した陸軍は広田弘毅内閣の組閣に干渉し、リベラル系の閣僚候補を排除していく。
 
更に、陸軍は軍事力を背景に政権に関与し、「軍部大臣現役武官制」(陸海軍大臣の任用資格を現役の大将と中将に限定する制度)を復活させ、露骨に圧力を加える「軍閥」へと変貌していくのである。
 
 
(注1)「神国日本ノ国体ノ真姿ヲ顕現セント欲スルニ在リ」という坂井直(さかいなおし)中尉の手記が有名
(注2)「党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス  一 首魁ハ死刑ニ処ス  二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑…」
 

時代の風景 「「雪の二・二六」 ―― 青年将校・その闘争の心理学」 より抜粋http://zilgg.blogspot.jp/2017/12/blog-post_28.html