ミヒャエル・ハネケ監督を全否定するシネフィルたちの性質(たち)の悪さ

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1  「不快なハネケ」の「不快な映画」という捨て台詞の遣り切れなさ
 
 
ミヒャエル・ハネケ監督映画ほど物議を醸し、厭悪(えんお)される作品もないだろう。
 
ファニーゲームを観た。リアル過ぎて最高に気分が悪くなった。なんだこれ、鬼畜。一生みないね。誘われても俺は部屋に閉じこもるわ」(原文ママ
 
こんなツイートあったが、「ファニーゲーム」を観て気分が悪くなった原因が、「リアル過ぎ」という理由を目の当たりにして、吹き出してしまった。
 
要するに、こツイートの主はリアルな描写が苦手なようである。
 
或いは、ツイートの主が、「リアル」=現実と向き合うことから回避できる映画ばかりをチョイスしているか否か全く不分明だが、情緒過多の邦画に馴致(じゅんち)し続けると、「リアル」嫌いを量産する我が国の多くの映画ファンと、どうしてもイメージが重なってしまうのである。
看過できないユーザーレビューもあった。
 
観客の神経を逆なでし、不快にさせることのみを目的に撮られたような内容で、とにかく胸糞の悪さしか残らない。この監督完全にアタマがおかしい。病んでいるとしか言いようがない」
正直、このレビューを目にして、空いた口が塞がらない。
 
 
例えば、右翼によってスクリーンに爆弾を投げつけられた事件を惹起した、シュルレアリスム全開の「ルイス・ブニュエルの黄金時代」のように、仮に、その種の映画があったとしても、ブニュエル監督そうであるように、表現のフィールドにおいて、自らの主張をカリカチュアライズ(戯画化)したりして、戦略的に映像化された作品が存在するのは事実。
 
だからと言って、その種の映画が、「観客の神経を逆なでし、不快にさせることのみを目的に撮られた」作品などでは決してない。
 
大体、このレビューの主ハネケ監督インタビュー記事に一度でも目通したことがあるのか。
 
私の知っている限り、ハネケ監督ほど誠実な映画監督を知らない。
 
自作についてのインタビュアーの発問に対して、ハネケ監督は真摯に、相手が納得できるまで的確に答えていく。
 
だから、それを読む私も、今や、真摯に読む習慣が身についている。
 
なぜなら、ハネケ監督には、観る者と問題意識を共有したいという強い思いがあるらだ。
 
相手を知る一欠片(ひとかけら)の努力をすることなく、浅薄な知識でジャッジする倨傲(きょごう)なるメンタリティに、作り手のこの強い思いが理解できようがない。
 
この監督は完全にアタマがおかしい。病んでいとしか言いようがない」
 
この一文に至っては、々、反応していくのもバカバカしいから、完全無視でいいのだが、今回だけははっきり書いておきたい。
 
一人の監督の一つの作品を観ただけで、これだけジャッジできてしまう精神構造に絶句する。
 
「病んでいる」どと言うなら、この監督の何、どこが、どの程度の様態において、どのような病理の現象を拾い上げて誹議(ひぎ)しているのか、具体的に指摘すべきである
 
それができるか否か ―― 大人と子供の境界は、そこにある。
 
私は、そう思う。
 
ハネケ監督の作品に対する感情的反応は、同じフィールドで仕事する映画監督にも言えるから性質(たち)が悪いのだ。
 
「カンヌ映画祭出品時、その凄惨さからヴィム・ヴェンダース監督や批評家、観客がショックのあまり席を立ったと言われる。ロンドンではビデオの発禁運動まで起こった」
 
Wikipedia掲載の「ファニーゲーム」には、こう書かれている。
 
それにしても、同じ映画監督であるヴィム・ヴェンダースの態度の不誠実さ・非礼さ。
 
 
自らの作風と異なっているからといって、同業者の作品を最後まで観ることができない行為のナイーブさ。
 
あまりにチャイルディッシュ過ぎないか。
 
その場の感情の振れ具合のみで動いてしまう、映画監督としての知的スタンスの狭隘さ・度量の小ささに呆れ返るばかりである。
 
例えば、映画「べニーズ・ビデオ」
 
「べニーズ・ビデオ」の凄みは、千言万語(せんげんばんご)を費やしても、それらの言葉が異化されてしまうほどのインパクトを持つ。
 
この映画に尻込みしてしまったら、ミヒャエル・ハネケ監督映画を観ても、殆ど何も得るものがないだろう。
 
途轍もない傑作・ファニーゲーム不快感を覚えるようは、ハネケ監督が観る者にあえて提示する、極めて鮮度の高い、今日(こんにち)的テーマと知的共存の隘路切り崩せない不快感を、ここでも、「不快なハネケ」「不快な映画」という捨て台詞によって簡便に処理してしまうに違いない。
 
往々にして、「不快なハネケ」の「不快な映画」という捨て台詞のうちに、「性格が悪い」などという、映画の読解と全く位相が異なる主観的言辞を嵌め込み、混淆(こんこう)させてしまうから、余計、厄介なのだ。
 
ミヒャエル・ハネケ監督を全否定するシネフィル(映画好き)たち性質(たち)の悪さ。
そう、言う外にない。
 
この混淆が、「バイアスの濃度の高さ」に起因することすら理解できないから、一切を「読解力不足」というジャッジの齟齬(そご)をも隠し込み、「性格」の問題に収斂させてしまう始末の悪さを露呈する。
 
速い判断による自動思考・「システム1」依拠する簡便な情報処理は、「不快なハネケ」の「不快な映画」という捨て台詞の総体に、根拠の希薄な「意味」を与えてしまうのである
 
根拠の希薄な「意味」手に入れられれば、一瞬、真っ白になった、疲弊する熟慮思考・「システム2」の機能劣化の混乱による不快感から巧みに解放されるのだ
 
こうして、人は皆、プライドラインを必死に守り、〈私の生〉の時間を延長させていくのである。


心の風景  「ミヒャエル・ハネケ監督を全否定するシネフィルたちの性質(たち)の悪さ」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/03/blog-post.html