1 「不快なハネケ」の「不快な映画」という捨て台詞の遣り切れなさ
或いは、ツイートの主が、「リアル」=現実と向き合うことから回避できる映画ばかりをチョイスしているか否か全く不分明だが、情緒過多の邦画に馴致(じゅんち)し続けると、「リアル」嫌いを量産する我が国の多くの映画ファンと、どうしてもイメージが重なってしまうのである。
看過できないユーザーレビューもあった。
「観客の神経を逆なでし、不快にさせることのみを目的に撮られたような内容で、とにかく胸糞の悪さしか残らない。この監督は完全にアタマがおかしい。病んでいるとしか言いようがない」
正直、このレビューを目にして、空いた口が塞がらない。
「観客の神経を逆なでし、不快にさせることのみを目的に撮られた」映画が、本当に存在すると思っているのだろうか。
例えば、右翼によってスクリーンに爆弾を投げつけられた事件を惹起した、シュルレアリスム全開の「ルイス・ブニュエルの黄金時代」のように、仮に、その種の映画があったとしても、ブニュエル監督がそうであるように、表現のフィールドにおいて、自らの主張をカリカチュアライズ(戯画化)したりして、戦略的に映像化された作品が存在するのは事実。
だからと言って、その種の映画が、「観客の神経を逆なでし、不快にさせることのみを目的に撮られた」作品などでは決してない。
私の知っている限り、ハネケ監督ほど誠実な映画監督を知らない。
自作についてのインタビュアーの発問に対して、ハネケ監督は真摯に、相手が納得できるまで的確に答えていく。
だから、それを読む私も、今や、真摯に読む習慣が身についている。
相手を知る一欠片(ひとかけら)の努力をすることなく、浅薄な知識でジャッジする倨傲(きょごう)なるメンタリティに、作り手のこの強い思いが理解できようがない。
それができるか否か ―― 大人と子供の境界は、そこにある。
私は、そう思う。
「カンヌ映画祭出品時、その凄惨さからヴィム・ヴェンダース監督や批評家、観客がショックのあまり席を立ったと言われる。ロンドンではビデオの発禁運動まで起こった」
それにしても、同じ映画監督であるヴィム・ヴェンダースの態度の不誠実さ・非礼さ。
自らの作風と異なっているからといって、同業者の作品を最後まで観ることができない行為のナイーブさ。
あまりにチャイルディッシュ過ぎないか。
その場の感情の振れ具合のみで動いてしまう、映画監督としての知的スタンスの狭隘さ・度量の小ささに呆れ返るばかりである。
途轍もない傑作・「ファニーゲーム」で不快感を覚えるような人は、ハネケ監督が観る者にあえて提示する、極めて鮮度の高い、今日(こんにち)的テーマとの知的共存の隘路を切り崩せない不快感を、ここでも、「不快なハネケ」の「不快な映画」という捨て台詞によって簡便に処理してしまうに違いない。
そう、言う外にない。
この混淆が、「バイアスの濃度の高さ」に起因することすら理解できないから、一切を「読解力不足」というジャッジの齟齬(そご)をも隠し込み、「性格」の問題に収斂させてしまう始末の悪さを露呈する。
速い判断による自動思考・「システム1」に依拠する簡便な情報処理は、「不快なハネケ」の「不快な映画」という捨て台詞の総体に、根拠の希薄な「意味」を与えてしまうのである。
こうして、人は皆、プライドラインを必死に守り、〈私の生〉の時間を延長させていくのである。
心の風景 「ミヒャエル・ハネケ監督を全否定するシネフィルたちの性質(たち)の悪さ」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/03/blog-post.html