「感情の氷河化」 ―― 「べニーズ・ビデオ」、その「分らなさ」という衝撃

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1  観る者の「ミラーニューロン」の活動電位が鈍化し、少年への「感情移入」を遮断させる肌寒き風景
 
 
「ホラーもSFも、アドベンチャーも、自分が状況を支配できるという幻想を持つことから生まれる。監督は状況を支配できる。映画は監督の創作だから。観客の立場は、罠に落ちても自分は無事だと分かっている。安全だと。驚きはしても、痛い目に遭うことはない。とても快適な状況だ。だから映画に金を払うが、実は危険でもある。つまり、前の話に戻れば、現実の生活でそれをやろうとすると、ものすごく危険だ」
 
これは、いつもように、自作を語るミヒャエル・ハネケ監督言葉である。
 
 
「感情の氷河化」と言われ、理由が全く不分明のまま、家族心中を描く「セブンス・コンチネント」に次いで、初期の三部作の二作目に当たる衝撃度100%の映画である。
 
虚構の世界に嵌(はま)り込んで、〈状況〉を支配できるという幻想を持つ者が、その幻想を現実の生活にまで持ち込んでしまえば、厳しいペナルティを受けるということ。
 
ハネケ監督は、そう言っているのだ。
 
―― 以下、単純なストーリーながら、難解な物語をフォローしていく。
 

見知らぬ家出少女と知り合ったベニーは、ピザを食べ合う関係の延長上に、自室で自慢のビデオを見せていく。 

 
ビデオ撮影がベニーの趣味なのだ
 
少女に見せた自慢のビデオとは、父親の屠殺場で、豚の殺戮現場を録画したビデオのこと。
 
このビデオから、「死体を見たことがあるか」という話題に転じた少女に、ベニーはとっておきの秘蔵物を見せ
 
父親の屠殺場から盗み出したスタンガンである。
 

100万ボルトもの高電圧発生させ、豚を気絶・殺傷するスタンガンを、少女に自慢げに見せるベニーは、「撃てよ」と言って、少女を挑発する。

 
その挑発に乗らない少女は、スタンガンをテーブルに置く。
 
「弱虫」とべニー。
「あんたこそ」と少女。
 
逆に挑発されたベニーは、「撃てば」と言う少女に対して、スタンガンを向けた瞬間だった。
 
「弱虫」という少女の言葉が再び発せられるや否や、スタンガンの引き金を引いてしまったのである。
 
腹部を撃たれて悶絶する少女を前に、慌てふためくベニー。
 
「助けてあげる。静かにして」
 
そう言って、少女を保護しようとしても、悶絶する少女拒絶されるだけ。
 
その直後のベニーの行為は、再びスタンガンを手にして、恐らく、額に撃ち込まれて絶命した豚が静かになったように自ら「死体」を作り出す行為に及んだのである。
 
「現実」の生活に虚構の世界が安易に持ち込まれ結果、録画したビデオの世界「現実」世界の物理的境界が曖昧(あいまい)化した。
 
そこに、特段に浮き足立った感情の噴出が見られない。
 
これが、ベニー少女殺しの顛末(てんまつ)である。
 
しかし、ベニーの少女殺し偶発的だったことは間違いない。
 

「殺人」という未知なるゾーンへの誘発力が、ベニーの「犯罪」の潜在的起爆剤になったか否かですら不分明である。 

 
「衝動」という都合のいい言葉の使用が、こういう曖昧模糊(あいまいもこ)とした状況説明に最も相応しいが、果たして、それがベニーの「犯罪」の本質的説明になっているかも判然としないのだ。
 

それには、厄介な状況下での「人間の心理と行動」の関係を、短絡的に説明することが如何に難しい事柄であるか瞭然とするだろう。 

 
「もちろん、最初から相手を傷つけようという悪意のある場合もある。だが、普通はもっと複雑で、偶発的なものだと思う。“有罪性”というものは、人が罪を犯す行為は漠然としている。明確なものではない」
 
ハネケ監督の言葉である
 
「最初から相手を傷つけようという悪意のある場合」 ―― その典型が「ファニーゲーム」二人の邪悪な若者であったことは自明である。
 
二人の邪悪な若者が暴力的に支配した「ファニーゲーム」に及び腰になって、悪罵(あくば)を浴びせる者、「感情の氷河化」の極点のような「べニーズ・ビデオ」が内包する得体の知れない事象、即ち、本質が外的に発現したような知覚可能な現象に、一方的に弾き飛ばされるだけだろう。
 
話を戻す。
 
事件後、その“有罪性” の意識が希薄であった少年の行為に、「変化」と呼ぶべき何かが生まれていく。
 
その象徴が、母とのエジプト旅行のシーンである。
 
有罪性の意識を希釈させる幾つかの些末(さまつ)なエピソードを経て、母子はホテルのベッドでテレビを観ていた。
 
テレビ画面は、エジプトの女性シンガーグループが、民族性の豊かなポピュラー音楽を楽しそうに歌っていた。
 
それを漫然と観ていた母が、突然嗚咽し、見る見るうちに号泣に変わっていくのだ。
 
傍らで身を横たえているベニーの表情には、想像の域を超えた母の反応に当惑し、衝撃を受けた者の精神的混迷の相貌性(そうぼうせい)が炙(あぶ)り出されていた。
 
「どうしたの・・・?」
 
心配げに言葉をかけても、一度吐き出された情動の氾濫を抑える術など何処にもない。
 
天井を仰ぎ、考え込む様子のベニーの内面に何かが起こったように見える。
 
それは、少女殺しが予定の行動ではなかったが故に、時が経つにつれ、少年の心に葛藤が生じているようにも見えるが、一貫して不透明であることには変わりがない。
 
この少年の心の風景を覗こうとしても、多様な解釈を混淆(こんこう)させ、事態が惹起してから、「あれは予測可能だった」と考える傾向=「後知恵バイアス」によって、「分ったつもり」になるだけで、正直、全く分らないと言った方が正確に近い。
 
 


心の風景  「『感情の氷河化』 ―― 『べニーズ・ビデオ』、その「分らなさ」という衝撃」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/03/blog-post_8.html