1 イメージとして揺蕩(たゆた)っている定義困難な「美」は、常に、時代によって揺れ動く価値を有する何かである
常緑針葉樹のアカマツや、ヤマザクラ、カエデ類の落葉広葉樹林の国有林によって、見事な森林景観で有名だった嵯峨嵐山が、建築用材の需要の増大に対応するために、昭和30年から45年にかけての拡大造林運動(林野庁の主導のもとに実施された官製の森林破壊)の結果、スギやヒノキなどの針葉樹人工林への変換の中で、僅かな限定スポットにしか広葉樹が残らない「紅葉名所」と化している現実に象徴されているように、人為的に加工することによって変容してしまう「美」としての風景の危うさと、私たちが同居していることを認知せねばならない。
例えば、市川崑監督の秀作・映画「細雪」で描かれていたように、「着物」、「伝統的商家・家並み」や「桜」、「紅葉」などの文化・自然の風景美の執拗なまでの映像提示のうちに、殆ど確信的に、「日本の美」の典型例として表現されていたが、しかし、どこまでもイメージとして揺蕩(たゆた)っているが故に定義困難な「美」が、遥かな時を超えた「美」という概念のカテゴリーとして結ばれていくには、それを保全しようとする人為的な作業の介在を不可避とせざるを得なくなるということである。
ここで私は、一つの歴史的エピソードを想起する。
日清戦争の渦中に出版され、明治中期に異例のベストセラーとなったことで知られる、札幌農学校(北海道大学の前身)出身で、国粋主義の地理学者・志賀重昴(しがしげたか)による「日本風景論」である。
豊富な地理学の教養を知的起点として上梓(じょうし)し、日本人の景観意識を変容させた記念碑的作品 ―― それが「日本風景論」だった。
「西欧文明は咀嚼(そしゃく)し、消化してから取り入れるべきだ」と言い切った志賀重昴は、この「日本アルプス」が、およそ4000メートルの標高を持つモンブランや、マッターホルンを始め、アイガー、グランド・ジョラスという三大北壁で有名な、名立たる「名山」を包摂し、東西1200キロメートルに及ぶ、ヨーロッパの本物のアルプス山脈よりも景観美が優れていると言うのだ。
「日本風景論」の大きな特徴は、「火山岩の多々なる事」・「水蒸氣の多量なる事」・「気候・海流の多變多様なる事」・「流水の浸蝕激烈なる事」等々、基本的要因を挙げることで、日本の山水美が世界的にも優れている理由を、説得力をもって説明したことにあると言っていい。
思うに、「日本風景論」の登場は、当時の国威発揚の世論の波に乗って、従来の「森林美学」とリンクした、人工的な寺社庭園という、長くこの国で定着した感のある「森林美学」を、根柢から変容させてしまったのである。
どこまでも、イメージの振れ具合でしかない私たちの自然風景観など、「絶対美」という幻想とも無縁なる相対的価値観なのである。
時代が変われば、風景観も変わるのだ。
従って、定義困難な「美」に関わる私たちのイメージの集合的要素も、呆気ない程に変容してしまうのである。
心の風景 「壊れゆく、ほんの少し手前の風景が一番美しい」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/02/blog-post_68.html