噂の心理学 ―― 或いは、セカンドレイブの包囲網の只中で闘うジャーナリスト

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1  噂⇒デマの怖さを映画化した秀作
 
 
「噂二人」という演劇ベースの映画がある。
 
アメリカの左派の劇作家・リリアン・ヘルマンの原作で、一度観たら忘れない、ウィリアム・ワイラー監督の秀作である
 
粗筋を簡単に紹介すると、以下の通り。
 
―― 学生時代からの親友で、寄宿性の女学校を共同経営する二人の女性(オードリー・ヘップバーンシャーリー・マクレーン)の親密な関係地元の有力者ワガママな生徒の孫娘から同性愛であるという噂が流されたことが、全ての発端だった。
 
その噂が町中に一気に広まり、驚愕(きょうがく)した寄宿学校の父兄たちは我が子を引き取ってしまう。
 
衝撃受けた二人は、名誉棄損で訴えたが、潔白を証明できず、かえって嘲笑の的にされ、孤立を深めいく。
 
既に他の男性と婚約していたヘップバーン婚約解消を余儀なくされる。
 
しかし、孫娘が撒き散らした噂が嘘あることを知った地元の有力者は謝罪するが、時すでに遅し。
 
疲弊し切ったシャーリー・マクレーン精神的に追い詰められた末に自死してまうのだ。
 
映画は、必ずし「同性愛」への差別がテーマではなく、悪意ある噂が暴力と化す怖さを描いていて、その意味で〈現在性〉を有していると言える。
 
補足説明すれば、シャーリー・マクレーンがヘップバーンに「同性愛」の感情を抱いていたは事実だが、婚約者がいるヘップバーンにはその気持ちが全くなく、「同性愛」の関係が成立すべき余地がなかった。
 
最も考えられるのは、東京裁判(1946年5月3日から1948年11月12日までの、2年間半に及ぶ軍事裁判)の開廷直前の状況下にあって、昭和天皇の退位・訴追を強硬に求める戦勝国の一部を納得させるための方略であったということである。
 
〈現在性〉を有しているが故に、観終わった後、大いに考えさせられる映画だった。
 
―― ここで私は、特段の悪意がなくても、根拠の希薄な噂が「爆発的共同絶交」と化す怖さを描いた近年の秀作を想起する。
 
トマス・ヴィンターベア監督で、マッツ・ミケルセン主演の「偽りなき者」である。
 
自らが通う幼稚園女児に性的虐待をしたという疑いをかけられた幼稚園教師、根拠の希薄な思い込みによる暴走で、件の教師を追い詰める起動点となった幼稚園の園長が流布したことで、地域住民の集中攻撃を受けるに至る、救いようのない映画だった。
 
置かれた立場の弱い特定他者が犯したとされる、反証不能の忌まわしき行為に対して、大きな影響力を持つ者の、客観的合理性の希薄な思い込みが独り歩きし、一気に確信にまで下降した幻想が、近接度の高い周囲の者たちをインボルブしてしまうとき、相当程度の確率で、そこに「犯罪」が生れてしまうときの怖さ ―― これが映画のテーマである。
 
地域コミュニティの構成員同士の近接度の高さが、ここでは、その内側に本来的に有する、「固有の治癒力」という「特効薬」を無化してしまって、毒素をふんだんに盛り込んだ、件の特定他者への集中攻撃を連射する事態を生んでいく。
 
事実無根であっても、「噂の二人」と同様に、「忌まわしき」行為に関わる情報、あっという間に、地域コミュニティの構成員の間に尾ひれを付け伝播し、受容されてしまうのだ。
 
「偽りなき者」の怖さは、民主主義が安定に確立されている国民国家の土手っ腹(どてっぱら)で、「爆発的共同絶交」を本質にする、集団ヒステリー現象の爛れ方描き切ったという一点ある。
 
また、映画という虚構の世界の中で噂⇒デマの怖さではなく、その怖さを目の当たりにみせた有名な騒動・歴史的事件からピックアップすれば幾らでもある。
 
以下、二つの有名な騒動・歴史的な衝撃事件について言及したい。


心の風景  「 噂の心理学 ―― 或いは、セカンドレイブの包囲網の只中で闘うジャーナリスト」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/03/blog-post_27.html