1 成熟した自我から「母性」が生まれる
―― 「児童虐待」という闇の深さ
養育者による愛情に満ち溢れた世話を受ける機会を喪失(母性喪失)すると、件の乳幼児に発達遅滞の現象が見られるという意味で、「愛着理論」(養育者と子供との間に形成される情緒的な絆の重要性を説いた仮説)で有名な英国の精神科医・ジョン・ボウルビィによって定式化され、今では、発達心理学の至要(しよう)たる概念になっている。
デンマーク出身のスサンネ・ビア監督による、ミステリーベースの秀作・「真夜中のゆりかご」である。
映画のミステリーの謎を解き明かしてしまうのに気が引けるが、それを書かないと批評にならないので、ここでは、ストーリーラインのコアの部分を大雑把(おおざっぱ)にフォローしていく。
そんな渦中で出来(しゅったい)した、あってはならない事故。
叫ぶ妻・アナ。
心臓マッサージによる蘇生術も実らず、呆気(あっけ)なく昇天してしまうアレクサンダー。
「息子を連れてったら、自殺する!子供を奪われたら死ぬ」
ここまで言われたら、アンドレアスは何もできない。
ドラッグ中毒のトリスタンの安アパートに行き、アレクサンダーの遺体と、ネグレクトされた乳児・ソーフスを掏(す)り替えてしまうのだ。
行き掛かりのトラックドライバーにソーフスを預けたアナが、異常な精神状態の中で、橋から入水自殺をしたのは、その直後だった。
アンドレアスとトリスタンが、交叉することなく犯した犯罪が、まもなく露呈してしまう。
折しも、肝心の相棒・シモンが、アンドレアスに対して疑念を深めていた。
乳児を大きく揺することで、網膜血管からの出血である「眼底出血」、頭部外傷による「急性硬膜下血腫」(こうまくかけっしゅ)などが引き起こされる「揺さぶられっ子症候群」。
アレクサンダーの死は、母親・アナによる虐待死だったのだ。
アナの狂気の振る舞いは、ネグレクトの事実を隠蔽するためのものだったのである。
程なく、強い贖罪意識に駆られて、ソーフスを連れ、サネの前に現れるアンドレアス。
ソーフスをしっかり抱き、嗚咽するサネ。
「サネ、許してくれ」とアンドレアス。
小さく頷くサネ。
数年後、執行猶予となり、警察官を辞めたアンドレアスは、ホームセンターで働くに至った。
―― 以上、「真夜中のゆりかご」の梗概(こうがい)である。
ここから、限りなく、本作に対する心理学的アプローチを繋いでいきたい。
冒頭で言及したように、当初、ジョン・ボウルビィは、「養育者」=「母親」であると考えていたが、「『母性愛』こそ至上の愛」であるという手強い物語が近代の発明である事実を喝破(かっぱ)した、エリザベート・バダンテールらの著作(「母性という神話」)によって、「母性本能」が、ほぼ幻想であることはもはや自明であり、ボウルビィも、のちに修正している。
分子生物学における「ゲノム」(遺伝情報全体)の問題を考えれば、DNAを担体(たんたい・種々の物質と結合し輸送する物質)とし、その塩基配列(DNAではアデニン、グアニン、チミン、シトシンの4種類)にコードされる遺伝情報(遺伝子)との関係を否定できないながらも、基本的に、「母性本能」は「学習行動」であるということ。
その意味で、「母性愛」という本能を、私たち人間が生来的に持ち合わせていないことは、子供を育ててみれば経験的に自明であると言っていい。
それでも、この「母性愛」という「物語」に固執するのは、「可愛くない子供」、或いは、「意に沿わない我が子」を育ててしまった不安・恐怖を中和し、定点の定まらない、不安定な自我の最後の防波堤にしたいからとも考えられる。
この物語は、言ってみれば、情緒不安定な若い母親を家庭から逃亡させないための巧妙なトリックとも思えるのだ。
「私は耐えてるわ」とアナ。
事件後の夫婦の会話だが、アナこそが難しい「子育て」に耐えられなかった張本人だった。
我が国では殆ど発症していないが、米国で多発している「揺さぶられっ子症候群」(シェイクンベイビーシンドローム)は、身体的暴力の代わりに、躾(しつけ)の一環として行われるケースが多く、体を前後に揺することで親の威厳を見せる精神的苦痛になり、充分過ぎるほど恫喝的な児童虐待であると言える。
アナの場合、新生児に対する常識的なあやし方の範疇を、明らかに逸脱していた。
薬物依存症の夫婦だったが、権力的なトリスタンに精神的に支配されていたサネにとって、ソーフスへのネグレクトの自覚が不足し、むしろ、ソーフスの存在が彼女のアイデンティティの対象であったこと。
だからサネは、ソーフス喪失の事態に狂乱する。
私たちが「母性本能」として包括するだろう、「無限抱擁」・「利他主義」・「犠牲的精神」といった聞こえのいい感情は、それが「母性本能」に収斂されなくとも、何よりも、成熟した自我から「母性」が生まれるという峻厳な現実を確認しておきたい。