「自分が見たものが全て」という、視界限定の狭隘さ

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1  物事を「単純化」し、「感覚的処理」によって状況を読み解き、分かったつもりになる
 
溢れ返るほどの情報群の中から、一定の情報を特定的に取り出して認知すること。
 
この認知機能を、認知心理学のフィールドで「選択的注意」と呼ぶ。
 
そもそも、私たち人間は「選択的注意」をしながら、情報を捕捉・認知し、解釈している。
 
もとより、私たちの情報の処理過程は、「記銘」(情報の受け入れ)⇒「保持」(情報の把持)⇒「想起」(情報の思い起こし)⇒「忘却」(情報の減退・喪失)という、記憶の階梯(かいてい)を相応の含みを持って仕済(しす)ましている。
 
この情報の処理過程の中で、固有の心理学的な反応を繋いでいるのである。
 
特有のフィルタリングを施し、一定の情報を特定的に取り出すというこの現象は「選択的注意」の代表例であり、「カクテルパーティー効果」と呼ばれている。
 
カクテルパーティー効果」と、多くの人が集合するパーティーの渦中で、自分が関心を持つ特定他者の声だけが選択的に聞き取れる心理効果のことで、「音声の選択的聴取」とも言われる。
 
外国語のスピーチを聴きながら復唱するので、日本人が苦手な英語上達の効果が高いことで注目されている「シャドーイング」を用いた実験によって、この「効果」は、1953年に、英国の心理学者・エドワード・コリン・チェリーによって提唱された、人間に特有な現象である。
 
特定の感覚情報を、選択的に処理するこ現象は、「選択的注意」から洩れた厖大(ぼうだい)な情報群を捨ててきているか、それとも、拾い切れない情報群をスルーしてしまうことを意味する。
 
従って、私たちが、その時代状況下で摂取し得る情報量は、常に限定的である外はない。
 
インターネットがこれほど普及し、私たちが手に入れる情報量は拡大的に増幅しつつも、それ以外の情報量も増えていくので、私たちの「血肉」の一部になるかも知れない情報摂取のゲームは、本質的に、いつまでも終わりが見えない鼬(いたち)ごっこにならざるを得ないのだ。
 
しかも、自分が手に入れた情報の真贋性(しんがんせい)を見分ける能力の優劣が勝負を分けるが、その能力の高低の差を無化する情報のアナーキー氾濫が、事態を収束させる手立ての一切を削り取ってしまうのである。
 
既に廃棄されたジャンク情報も、怒涛のように侵入してくるので、それを処理する私たちの能力が追いつけない状況の、厄介なる不合理の極み。
 
これが、情報社会に呼吸を繋ぐ私たちの、極めて難儀な問題であるだろう。
 
増水した本流の流れに堰(せ)き止められ、出口を失った支流が決壊する「バックウォーター現象」のように、常軌を逸して猛(たけ)り狂う情報氾濫の破壊力に、私たちは何もできない。
 
形状が不規則な塊(かたまり)と化した情報群に立ち向かい、知的に解析し、処理する過程が困難になっていくので、私たちの情報処理は、「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増(いやま)さざるを得ないのである
 
物事を「単純化」し、事態を「感覚的処理」によって、短時間で状況を読み解き、分ったつもりになる。
 
分ったつもりになれば、本人基準で自己完結する。
 
一見落着するだ。
 
一見落着すれば、「確信幻想」を得て、観念系が強化される。
 
観念系のフィールドでの、丁々発止(ちょうちょうはっし)のゲームに拘泥(こうでい)する者にとって、「確信幻想」という、際限なく主観的な内面的経験、視界限定の直線的な累加の時間は極上の快感になる。
 
観念系が強化されるエクスペリエンス(経験)は、米国の心理学者・チクセントミハイが概念化し、ポジティブ心理学のキーコンセプトである「フロー体験」=「最適経験」と呼称される自己陶酔感を感受し、知的なユーフォリア(幸福感)にまで、「防衛機制」を張り巡らせた「時間」の漂動(ひょうどう)を昇華させてくれるだろう。
 
何より、「単純化」と「感覚的処理」という、心理学の格好の方略こそ、現代人の情報処理の日常的な武器と化している。
 
分ったつもりにること。
 
それで充分なのだ。
 
「世界」を説明できる心境に達するだけで充分なのである。
 
「世界」を説明できれば、怪しげな陰謀論に身を寄せることも一向に構わない。
 
「確信幻想」を手に入れ、観念系が強化されて得られる心地良き感情。
 
もう、それだけで充分なのである。
 
 
心の風景「 『自分が見たものが全て』という、視界限定の狭隘さ」よりhttps://www.freezilx2g.com/2019/02/blog-post.html