<一切を吹っ切った男が、「血縁」という「絶対基準」の境域破壊を具現化する>
1 、「ステップファミリー」の難しさを描く物語が開かれる
完璧な映画の、完璧な主題提起力・構成力・構築力。
近年、私が観た邦画の中で、ベスト1の映画。
交叉することがない、思春期の初発点にいる2人の少女が抱える、艱難(かんなん)なテーマに関わるプロットのリアリティがダイレクトに伝わってきて、強烈に胸に響き、嗚咽を抑えられなかった。
それにしても、演技を超えた表現力を発露した浅野忠信の凄み。
圧倒された。
比肩すべき何者もいない、正真正銘の映画俳優である。
―― 以下、物語のアウトライン。
「沙織。沙織に妹か弟かできたら、どうする?」
「ないって、お母さん、子供あたし一人で充分って、いつも言ってるし」
「もしもだよ。もしもお父さんとお母さんが、もう一人欲しいって言い出したら…」
「お母さん、40だよ」
「まだ産めるよ。産めって言ったら反対する?」
「反対なんかしないよ。いいんじゃない」
「でもだよ、お母さんには、その…沙織も赤ちゃんも自分の子供だけど、お父さんからすれば、何ていうか、その、沙織がさ、あの…」
「私が、余りになっちゃうんだ…」
「そうかも知れないよ」
「でも、お父さんは私を余りなんかに絶対しない!」
遊園地の観覧車の中での父と娘との深刻な会話から、「ステップファミリー」(子連れ再婚家族)の難しさを描く物語が開かれる。
父の名は、田中信(まこと・以下、信)。
大手企業に勤めるサラリーマンである。
小学6年生の沙織(さおり)は、今、父の前妻・友佳と共に暮らしていた。
だから、父と子は、このような形でしか会えないのだ。
ここで、父が言う「もう一人」とは、再婚した奈苗(ななえ)との間に産まれる子供を意味するが、沙織は、「妹か弟」が40歳になる友佳との間の子供であり、その子を大事にすると考えていたので、「余り」という言葉に結ばれたのである。
一方、奈苗には、前夫・沢田との間に儲けた二人の娘、12歳の薫、幼稚園児の恵理子がいる。
義父の信を実父であると信じ、疑いを持つことなく懐(なつ)いている恵理子と異なり、児童期後期で、思春期の初発点にいる長女・薫は、実母と継父(母の夫で血の繋がりのない父=義父)との間に産まれる新生児に対し、「妹か弟」という観念を持ち得ず、露骨に反発し、実母と義父の両親に対し、反抗的な態度に振れるばかりだった。
信との子を産むと決めている奈苗と、その新生児の誕生に複雑な思いを捨てられない信。
信にとって、冒頭の会話の相手である、沙織との定期的面会に快く思っていない奈苗への配慮もあり、3か月毎の面会後の帰宅の際には、必ずケーキを買っていく。
それが、「情緒の共同体」としての「家族」に対する信の、精一杯の愛情の、それ以外にない物理的変換の行為だった。
しかし、悪循環が止まらない。
「家族第一」の生活を送ってきたことで、かつては「出世候補」の筆頭でありながら、会社との付き合いを断り続けてきた係長の信が、新木場への「片道切符」の出向を迫られることになる。
その仕事とは、倉庫のピッキング(検品、仕分け、梱包)という単純な仕事。
馴れない仕事で、ピッキングの成績も上がらなかった。
そんな憂(う)さを、「一人カラオケ」で発散する信。
「この先どうなるか分らないよ。それでも(子供が)欲しい?」
「欲しい、あなたの子供」
楽天的な妻と、工場出向での苦労を語る信との、夜の夫婦の会話だった。
言ってみれば、信の出向は、我が国に根強い一種の「パタハラ」(パタニティ・ハラスメント=男性の育児参加への企業サイドからのペナルティ)と言えるかも知れない。
―― 以上が、7人(注)の主要登場人物によって成る梗概(こうがい)だが、ここから、批評含みで言及していく。
(注)以下、Wikipediaより。
田中信:浅野忠信
田中奈苗:田中麗奈
田中薫(奈苗の連れ子):南沙良
沙織(信と友佳の実娘):鎌田らい樹
田中恵理子(奈苗の連れ子):新井美羽
沢田(奈苗の元夫、薫・恵理子の実父):宮藤官九郎
友佳(信の元妻、沙織の実母):寺島しのぶ
他に、末期癌患者の教授・江崎(友佳の再婚相手)
人生論的映画評論・続「
人生論的映画評論・続: 幼子われらに生まれ('17) 三島有紀子」('17)より