蜩ノ記(‘13) 小泉堯史 <「武士道」を貫徹し、「利他行動」の稜線を広げていった男の自己完結点>

イメージ 11  一日の終わりを哀しむかのような蜩の鳴声に寄せ、一日一日を賢明に生きる男
 
 
 
不満の多かった「雨あがる」(1999年製作)と切れ、全く破綻のないこの映画は、取って付けたような描写も違和感もなく、私の中枢に自然に這い入ってきて、極めて美しく特化された男の人物像を描きながらも、改めて、「利他行動」の様態について考える作品になり、感謝の気持ちで一杯である。
 
―― 以下、詳細な梗概。
 
豊後、羽根(うね)藩に檀野庄三郎(以下、庄三郎)が、郡奉行(こおりぶぎょう/領国の農民の管理や徴税などを任務)であった戸田秋谷(しゅうこく/以下、秋谷)の監視役に命じられたのは、祐筆役(ゆうひつやく/文書や記録を司る武家の事務官僚)である彼が、偶発的に起こした刃傷沙汰によって、家老・中根兵右衛門の温情により切腹を免れたからであった。
 
以下、中根兵右衛門によって命じられた「監視役」の内実である。
 
「戸田秋谷は郡奉行から江戸表にいて、大殿・兼通(かねみち)公からお側近く用人となったが、7年前の8月8日、事件を起こし、失脚。今、向山村(むかいやまむら)に幽閉されている。秋谷の罪は、江戸邸にて側室と密通して、気付いた家臣を斬り捨てたというもの。本来なら、家禄没収の上、切腹。ところが、そうはならなかった。秋谷は学問ができた故、我が藩の歴史、つまり家譜(かふ)に取り組んでおった。兼通公は、家譜の編纂が中断することを惜しまれ、10年後の8月8日を切腹する日と期限を切り、それまで家譜の編纂を続けるよう命じられた。死を目前に誰しも怖気づく。そなたの役目の一つは、家譜の正史を使命とし、切腹の日まで監視すること。今一つは、側室の不義にまつわる一件がどのように書かれるか確かめ、報告すること。秋谷は編纂を通じ、我が藩の秘め事をことごとく知るであろう。断じて他国へ逃してはならん。秋谷が逃亡を図るときは、本人だけでなく、妻子もろとも斬り捨てよ」
 
この使命を受け、向山村に向かった庄三郎。
 
この映画は、秋谷の切腹の日まで3年間という限定された残り時間で、庄三郎の心に深く沁み込んでいく戸田家との人間的交流を、静謐(せいひつ)な映像のうちに描き出していく。
 
秋谷と最初に出会った際に、庄三郎が目にしたのは、既に、154年の家譜をまとめた分厚い書だった。
 
驚嘆する庄三郎。
 
秋谷は、家譜の編纂という任務の他に、日々の雑事や思いを記した日記をつけていた。
 
その名は「蜩ノ記」(ひぐらしのき)。
 
以下、日記の由来を説明する秋谷の言葉。
 
「夏がくると、この辺りはよく蜩が鳴きます。特に秋の気配が近づくと、その一日が終わるのを哀しむかのような鳴声に聞こえます。私も、一日一日を賢明に生きる身の上でござれば、その日暮らしの意味合いを込め、『蜩ノ記』と名付けました」
 
庄三郎はこの言葉を聞き、自分の「監視役」としての仕事の内実を正直に吐露する。
 
「お役目を果たされるのは当然のこと。ご懸念には及びません」
 
これが、ごく普通の日常性を繋いでいるかのように、一貫して冷静に対応する秋谷の反応である。
 
ところが、この庄三郎の話を聞き知った秋谷の息子・郁太郎(いくたろう)は動揺し、その事実を父に尋ねるのだ。
 
「3年後、そなたを元服させ、話すつもりでいた」と父。
「母上や姉上はご存じなのでしょうか?」
「知っておる」
「私だけが知らなかったのですね」
「そなたは武士の子。父の死を知ったとて、何が変わるというわけではなかろう」
 
衝撃を受けた10歳の郁太郎は、そのまま走り去っていく。
 
家族の現実の一端をいきなり見せつけられ、自分の使命を迂闊(うかつ)に話したことを悔い、郁太郎を追いかける庄三郎。
 
溜池に座り込んでいる郁太郎に話しかける前に、郁太郎から問い詰められる庄三郎。
 
「あなたは父が死ぬのを見届けに来たのですか?」
「そうだ。それが私のお役目だ」
「父上は立派な方です。悪いことをされる訳がありません。なぜ、切腹など」
「戸田様は覚悟をしておられる御様子。息子として、父の覚悟を乱すようなことがあってはならないのではないかな」
「この私に、まもなく父上と別れよと。そう言われますか!」
「憎みたければ、私を憎め」
 
感情を抑え切れず、庄三郎に向かって行く郁太郎。
 
「どうしようもないことで、罪に問われることがある」
「私には分りません!」
「私は城内で喧嘩をし、友を斬ってしまった」
「父上も同じだと言うのですか!」
「私には分らない!逃れようとしても、逃れられないことがある」
 
取っ組み合いながら、郁太郎に説諭する庄三郎。
 
そんな二人が、今、溜池に佇(たたず)んでいる。
 
「私は武士の子です。覚悟はできました」
 
郁太郎の力強い言葉が、この二人の不思議な出会いの軟着点になっていくが、運命に抗うことができないと知る気の強い少年の、それ以外にない防衛機制であると言っていい。
 
一方、この二人の帰宅を待つ秋谷と妻・織江、そして長女の薫。
 
村人たちのイグサを生かし、現金の身入りの足しにするために、織江が発案した敷物が御膳に敷かれていた。
 
庄三郎への精一杯の持て成しだった。
 
「イグサ栽培は、村の人たちの暮らしを少しでも豊かにしようと、父が始めたものです」
 
この郁太郎の説明によって、「非日常の日常」を繋ぐこの家族が、村人たちのコミュニティに溶融していることが読み取れる。
 
以下、その夜の、秋谷と庄三郎の会話。
 
「この家譜がまとまれば、ご家老様はご先祖のことを蒸し返される。そう思われるのではありませんか?」
「家譜が作られるとは、そういうことです。歴史とは、都合良きことも悪しきことも、子々孫々に伝えられてこそ、世の指針となり得るのではありませんかな」
「歴史は鑑(かがみ)と申しますが、藩を預かる中根様のお心にはどのように映るのか・・・」
「ご自身のお手本として下されば。ともかく、私は約束を果たさねばなりません」
「私も、重い荷を背負ったように思います」
 
かくて朝になり、庄三郎の重くて長い一日が閉じていった。
 
長女・薫の庄三郎との短い会話があり、庄三郎の新しい一日が開かれる。
 
藩主の側室との不義密通の事情を知らずに、それでも父を信じようとする薫に対し、同様に、事情を知らない母・織江は、そこだけはきっぱりと言い切った。
 
「お父様は何があろうと、自らを恥じるようなことは決してしない。そう信じておりますよ」
 
この織江の言葉は、向山村の南麓にある禅寺・長久寺で、村の子供たち相手に「寺子屋」を催す秋谷の立ち居振る舞いを見れば、その人となりが観る者に伝わってくる。
 
その「長久寺」の庫裏(くり)で、慶仙和尚と庄三郎が会話を繋いでいる。
 
「秋谷殿は罪を犯したのではない。自ら望んで、罪を背負ったのだ」と慶仙和尚。
「それは、いかなることでしょうか?」と庄三郎。
「藩のためかも知れぬし、一人の女子(おなご)のためかも知れん」
「一人の女子?」
「密通したと言われている側室とは、お由(よし)の方だ」
「松吟尼(しょうぎんに)様のことでしょうか?」
「さよう。お由の方は元々、秋谷殿の父上に仕えていた家臣の娘。秋谷殿とは幼馴染だ。どのような縁(えにし)があったかは知らぬが、お由の方は大殿・兼通(かねみち)公に見染められ、側室となられてな。兼通公は殊の外、お由の方への寵愛が深く、そのお子を溺愛し、お世継ぎにと。厄介なことでござった。当時この藩は、新たにお子を授かったお由の方と嫡男・義之様の御生母・お美代の方を巡り、覇権を争っていた。7年前の騒動は、嫡男・義之様が廃嫡されるのを防ごうとして起きたとも考えられる。もしや当時、幕府御公儀にお世継ぎを巡ってのお家騒動を知られたら、この藩は取り潰しになっていたやも知れぬ。御公儀に対し、表向きは家臣と側室の不祥事。つまり、不義密通として片付けられたがな」(注)
「理不尽ではありませんか」
「いやぁ、秋谷殿は家臣を斬り捨て、大殿の側室と一夜を過ごしたことは事実だそうな」
「その事実の奥にある真実とは、いかなることでしょうか?」
 
結局、庄三郎の本質的な質問に答えられない慶仙和尚もまた、伝聞の域を超えない情報しか持ち得なかったのである。
 
しかし、自分のイメージと異なる「秋谷の事件」に対する関心は深まるばかりだった。
 
その頃、秋谷は村民の相談に乗っていた。
 
秋谷は、羽根藩の財源が七島筵(しちとうむしろ)にあり、それを独占し、甘い汁を吸い続ける播磨屋への不満の思いを受け止めていた。
 
因みに、ウィキによると、七島筵は庶民の畳表として用いられるようになり、特産品として藩の財政と農民の暮らしを潤したと言う。
 
金貸しである播磨屋と羽根藩の役人の癒着によって、搾取される村民たちという構図が、そこにはある。
 
その村民たちの不満が、一揆にまで広がることを諫(いさ)めているのだ。
 
「人は生きている限り、どこかに生き火が隠されているはず。大切なのは吹き続けること。今、必要なのは耐え抜くこと。時を待ちなさい」
 
今にも江戸表に直訴しようとする村民たちに対する、「大切なのは吹き続けること」と言うこの秋谷の言葉は本作のメッセージの一つでもある。
 
一年経った。
 
中根兵右衛門に呼ばれた庄三郎が、お由の方改め、松吟尼の元に行くための許可を求めた。
 
家譜の編纂の中で、文化元年(1804年)、松吟尼に兼通より許しが出るという一文に接し、その内実を知ることが目的だったが、庄三郎の思惑は、どこまでも「秋谷の事件」への関心を捨てられなかったからだ。
 
 

人生論的映画評論・続蜩ノ記(‘13) 小泉堯史 <「武士道」を貫徹し、「利他行動」の稜線を広げていった男の自己完結点>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/08/13_30.html