<どうしても、そこだけは変わらない、「私の時間」が累加した「情感濃度」を、観る者に深く鏤刻する>
1 「幼馴染」を失い、痛惜の念に震えていた
1999年、中華圏で最も重要な祝祭日で、旧暦の旧正月に行われる中国春節。
「雲崗石窟」(うんこうせっくつ)で有名な山西省(大同市)に位置する汾陽(フェンヤン)の街。
色彩豊かで、煌(きら)びやかなスポットで踊る、若者たちの青春が弾(はじ)けていた。
小学校教師のタオは、そんなお祭りムードの時間に溶け込み、二人の幼馴染(おさななじみ)と団欒(だんらん)していた。
炭鉱労働者リャンズーと、実業家ジンシェンである。
「俺には怖いものがない」
ジンシェンの自信過剰の言葉は、タオにのみ放たれる。
そのタオに、真っ赤な新車を見せびらかせ、「香港に行きたい」というリャンズーに対し、「俺はアメリカに連れて行く」と豪語した。
春節の花火が天に向かって打ち上がっていく風景の中、新車を走らせて、3人のドライブが時を駆けていく。
自ら慣れない運転をして、燥(はしゃ)ぐタオだが、この関係の居心地の悪さだけが、観る者に印象づけられる。
三角関係の居心地の悪さに、ジンシェンは、もう、耐えられなかった。
実業家という「ステータス」を全面に押し出し、リャンズーに冷たく言い放つジンシェン。
「俺はタオが好きだ。諦めてくれ。もう、俺たちの友情は終わった。俺の炭鉱から出ていけ」
「心配するな。お前に頼るなら、死んだ方がマシだ」
誇りを傷つけられ、そう言い切って、炭鉱を去るリャンズー。
そのリャンズーは、今、電気店を営む実家にタオが立ち寄って、寛(くつろ)いでいた。
傲慢なジンシェンが感情を害し、怒りを噴き上げたのは、あってはならない、この風景を見せつけられたからである。
リャンズーにも、タオへの想いが諦念(ていねん)できない。
既に、ジンシェンとの結婚を決めていたタオに、リャンズーが問う。
「心を決めたのか」とリャンズー。
「私たちは友だちよ。分って」とタオ。
自らの感情を抑制できずに、嫌味を放つジンシェンを殴ってしまうリャンズー。
ジンシェンに対する積もる怒りが、憤怒として噴き上がってしまったのだ。
窮屈(きゅうくつ)な三角関係に縛られ、心労が絶えないタオには、将来性のないリャンズーとの結婚は考えられなかった。
深く傷ついたリャンズーは、そのまま街を去っていく。
あろうことか、タオは自分の結婚式に招待するために、そのリャンズーを訪ねていくのだ。
どこまでも、タオにとって、リャンズーは「幼馴染」であって、配偶者となり得る対象人格ではなかった。
それでも、リャンズーの想いを理解できているが故に、タオは懊悩(おうのう)を深めてしまうのである。
リャンズーに結婚の招待状を渡すという行為の目的は、無論、リャンズーを苦しめることではない。
自分を諦めて欲しいというメッセージでもない。
ただ、夫になるジンシェンを殴って、街を去ったリャンズーとの関係をフリーズさせたくなかったのだ。
結婚に至らなくとも、「友情」を壊したくない。
その思いが、タオを動かした。
要するに、タオは子供だったのである。
だから、この一件で、リャンズーは自宅の鍵を捨てて、完全にタオと決別する。
タオの表情に、一人の大切な「幼馴染」を失ったという悲しみの涙が滲(にじ)んでいた。
痛惜(つうせき)の念に震えているのだ。
まもなく、ジンシェンと結ばれたタオに子供が生まれた。
名前はチャン・ダオラー。
「米ドル」に因んで、名付けた赤子の名である。
「パパが米ドルを稼いでやるぞ」
相も変らぬジンシェンの「Go West」の野心が、画面一杯に踊っていた。
以下、人生論的映画評論・続「 山河ノスタルジア('15) ジャ・ジャンクー」より