山河ノスタルジア('15)   ジャ・ジャンクー

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<どうしても、そこだけは変わらない、「私の時間」が累加した「情感濃度」を、観る者に深く鏤刻する>

1  「幼馴染」を失い、痛惜の念に震えていた


1999年、中華圏で最も重要な祝祭日で、旧暦の旧正月に行われる中国春節

雲崗石窟」(うんこうせっくつ)で有名な山西省(大同市)に位置する汾陽(フェンヤン)の街。

色彩豊かで、煌(きら)びやかなスポットで踊る、若者たちの青春が弾(はじ)けていた。

小学校教師のタオは、そんなお祭りムードの時間に溶け込み、二人の幼馴染(おさななじみ)と団欒(だんらん)していた。

炭鉱労働者リャンズーと、実業家ジンシェンである。

「俺には怖いものがない」

ジンシェンの自信過剰の言葉は、タオにのみ放たれる。

そのタオに、真っ赤な新車を見せびらかせ、「香港に行きたい」というリャンズーに対し、「俺はアメリカに連れて行く」と豪語した。

春節の花火が天に向かって打ち上がっていく風景の中、新車を走らせて、3人のドライブが時を駆けていく。

自ら慣れない運転をして、燥(はしゃ)ぐタオだが、この関係の居心地の悪さだけが、観る者に印象づけられる。

三角関係の居心地の悪さに、ジンシェンは、もう、耐えられなかった。

実業家という「ステータス」を全面に押し出し、リャンズーに冷たく言い放つジンシェン。

「俺はタオが好きだ。諦めてくれ。もう、俺たちの友情は終わった。俺の炭鉱から出ていけ」
「心配するな。お前に頼るなら、死んだ方がマシだ」

誇りを傷つけられ、そう言い切って、炭鉱を去るリャンズー。

そのリャンズーは、今、電気店を営む実家にタオが立ち寄って、寛(くつろ)いでいた。

傲慢なジンシェンが感情を害し、怒りを噴き上げたのは、あってはならない、この風景を見せつけられたからである。

リャンズーにも、タオへの想いが諦念(ていねん)できない。

既に、ジンシェンとの結婚を決めていたタオに、リャンズーが問う。

「心を決めたのか」とリャンズー。
「私たちは友だちよ。分って」とタオ。

自らの感情を抑制できずに、嫌味を放つジンシェンを殴ってしまうリャンズー。

ジンシェンに対する積もる怒りが、憤怒として噴き上がってしまったのだ。

窮屈(きゅうくつ)な三角関係に縛られ、心労が絶えないタオには、将来性のないリャンズーとの結婚は考えられなかった。

深く傷ついたリャンズーは、そのまま街を去っていく。

あろうことか、タオは自分の結婚式に招待するために、そのリャンズーを訪ねていくのだ。

どこまでも、タオにとって、リャンズーは「幼馴染」であって、配偶者となり得る対象人格ではなかった。

それでも、リャンズーの想いを理解できているが故に、タオは懊悩(おうのう)を深めてしまうのである。

リャンズーに結婚の招待状を渡すという行為の目的は、無論、リャンズーを苦しめることではない。

自分を諦めて欲しいというメッセージでもない。

ただ、夫になるジンシェンを殴って、街を去ったリャンズーとの関係をフリーズさせたくなかったのだ。

結婚に至らなくとも、「友情」を壊したくない。

その思いが、タオを動かした。

要するに、タオは子供だったのである。

だから、この一件で、リャンズーは自宅の鍵を捨てて、完全にタオと決別する。

タオの表情に、一人の大切な「幼馴染」を失ったという悲しみの涙が滲(にじ)んでいた。

痛惜(つうせき)の念に震えているのだ。

まもなく、ジンシェンと結ばれたタオに子供が生まれた。

名前はチャン・ダオラー。

「米ドル」に因んで、名付けた赤子の名である。

「パパが米ドルを稼いでやるぞ」

相も変らぬジンシェンの「Go West」の野心が、画面一杯に踊っていた。

 

 以下、人生論的映画評論・続「 山河ノスタルジア('15)   ジャ・ジャンクー」より