酒井家のしあわせ(‘06) 呉美保 <「思春期スパート」した少年を吸引する「家族」の底力>

イメージ 11  コメディ基調の物語の風景の変容が開いた世界
 
 
 
オカンの嫁入り」がそうであったように、この作り手が只者ではないことが、よく分った。
 
そこのみにて光輝く」への一気の跳躍は、フロックではなかったのだ。
 
思春期の揺動感を巧みに切り取って描いたこの映画に、心の底から感動した。
 
良い映画だった。
 
―― 以下、本作の梗概。
 
思春期前期の少年には、色々、悩みが多い。
 
中2の次雄の家庭は4人家族だが、些か複雑である。
 
父の正和は母の再婚相手なので、血縁の繋がりがない。
 
所謂、継父であるから、コミュニケーションも、どこか不自然なところがある。
 
それは、継父の正和が東京出身で、無理して、下手な関西弁を駆使したりすることと無縁でないかも知れない。
 
若くして、両親を相次ぎ失くしたトラウマを引き摺っている父の心情など、自己中心的になりやすい思春期の難しい時期に当たる次雄にとって、特段な関心を持ちようがないのだろう。
 
だから、実母の照美が、常に小言を撒き散らしている日常的風景には、当然ながら、うんざり気分の日々を繋ぐばかり。
 
エロ漫画を見て、オナニーに耽る次雄の関心領域に、「家族」の問題など入り込む余地はないのだ。
 
サッカー部の部活で、持て余すエネルギーを発散しているが、顧問の先生の口煩い指導に対して、思春期視線から見る、「大人」へのラベリングされた固定観念が張り付いている。
 
自分に興味を持つ女子の筒井から、誕生日プレゼントを受け取り損ねたエピソードなども、多くの中学生たちが経験する、ほろ苦くも、思春期にありがちなごく普通の風景の一端でしかない。
 
しかし、思春期の鮮度の高い風景に翻弄されながらも、その時間を愉悦する余裕を奪う事態が惹起する。
 
ここから、コメディ基調の物語の風景が変容していく。
 
継父の正和が、家を出ていくというのだ。
 
唐突な事態に、次雄は言葉を失うばかりだった。
 
「堂々と、息子に言われへんようなことなんですか?」
 
この母の言葉に、驚く次雄。
 
「何?」
 
荷物をまとめている父からの反応は全くない。
 
好きな人ができたんやて。だから、家出ていくんやてと母。
「マジで?」と次雄。
「しかも、その好きな人って、女ちゃうねんで。男。わらかすやろ。で、その男って、誰やと思う?」
「誰?誰なん?」
「麻田君」
 
その相手が、工務店に勤める正和の後輩である麻田と聞き、驚いて声も出ない次雄。
 
「頭おかしいんちゃう?」
「ホンマなん?」
 
そう言って、父の肩をゆすり、詰問する次雄。
 
しかし、頷いただけで、そのまま、無言で家を出ていく父・正和。
 
自分の血を分けた娘から問いかけられ、一瞬、躊躇するが、「一家の大黒柱」であるはずの父は、車に乗って出ていってしまったのだ。
 
家族の崩壊の危機を目の当たりにした次雄が、親友のナリ(一成)と授業中に喧嘩して、怪我をさせたのは、その翌日だった。
 
サッカー部の顧問にも反抗する始末。
 
授業中なのに帰宅しようとす次雄を止めようとした顧問に、「うるさい。どいて!」とまで叫ぶのだ。
 
「あーあ。親、選びたかった」
 
これは、ナリと喧嘩して怪我をさせた謝罪のために、母・照美と共に、ナリの母が経営する喫茶店を訪ねた際、その不貞腐れた態度を叱った母に、次雄が洩らした言葉。
 
「子供はなぁ、親を選べへんように、親も子供を選べへんねん」
 
母・照美が烈火の如く怒る気配を察して、ナリの母が次雄に説諭する。
 
定点を持ち得ない思春期前期の自我が、今や大きく揺れていて、当て所なく彷徨(さまよ)っているのだ。
 
彷徨っている自我は、叔父(亡父の弟)の元を訪ねていた。
 
「お前のお母さんと死んだお父さんも、毎日喧嘩しとって、その度に離婚する言うとったにやで。お前のお父さん死んだ日はやな、ほんまは、皆で一緒に出かける言うとったんや。けどや、また朝からしょうもない喧嘩して、お前の兄ちゃん連れて、出てって、それっきりや。そしたら、照ちゃん、気狂ったみたいになっても、わしら、ちょっと目離したすきに、裏の川に何遍も飛び込もうとして、大変やった・・・生きてるとき、どんなに憎らしゅうても、死んでしもたら、お終いやねんて。そんなもんなんや、人なんて」
 
その叔父とオセロゲームをしながら、次雄の知らない母・照美の暗い過去の一端を、叔父から聞かされ、動揺を隠せない。
 
この叔父の家には、すっかり重度な認知症を患っているために、自分を特定できず、爆食するばかりの祖父がいた。
 
更に、寡(やもめ)である叔父の恋人と思しき若い女性が訪ねて来て、この叔父もまた、それなりに人生を楽しんでいるシーンが挿入される。
 
自分の甥に、「人生の厳しさ」を語り尽くした叔父の、その人生の「現在性」を目の当たりにした少年が、そこで見たものは、まさに、自分にとって未知のゾーンである、「大人の人生」のリアリティそのものだったのか。
 
そして、「大人の人生」のリアリティが、少年の家族の揺動する渦中で、次雄の思春期行程のリアリズムに襲いかかって来た。
 
家を出た父と、偶然、天神祭というハレの儀式の炸裂の中で再会したのである。
 
この一件を機に、次雄は、家を出た父が密かに抱えていた、「大人の人生」のリアリティを知るに至る。



人生論的映画評論・続/
酒井家のしあわせ(‘06) 呉美保 <「思春期スパート」した少年を吸引する「家族」の底力>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/05/06.html