潜水服は蝶の夢を見る('07)   「想像力」と「記憶」を駆使し、窮屈な“潜水服”の状態から抜け出ていく

1  「体が動かない。動けぬまま、僕は旅の手記を書く。孤独の彼方に、漂流する者の目で」

 

 

脳梗塞によって、ロックトイン症候群(閉じ込め症候群)になり、眼球運動以外のコミュケーション機能を失った一人の男・ジャン=ドーが、事故から3週間後に覚醒した。

 

彼はファッション誌「ELLE」の編集長。

 

ベルグ海軍病院神経科の医師が、脳血管発作によって、脳幹の回路が破壊されたと説明する。

 

まもなく、言語療法士言語聴覚士のこと)のアンリエットがコミュニケーションの方法を伝えていく。    

 

質問の答えが、“はい”は、まばたき1回、“いいえ”は2回。   

 

「『ELLE』の編集長でしたか?」

 

〈そう。僕は『ELLE』の編集長だった〉

 

【〈〉の意味は、ロックド・インされたジャンドーの音声化されない言葉】

 

 その後、開いたままの右目を縫い合わせ、左目の瞬(まばた)きだけでコミュニケーションを取っていく。

 

車椅子に乗せられ、最初の面会者である妻のセリーヌと再会することになるが、ジャン=ドーの眼が涙で曇ってしまう。

 

〈ベルクの駅…よく知っている。今も目に浮かぶ。世界で一番、陰気な場所。子供の頃、この地で夏休みをすごした。ベルク。夏の終わり。パリに帰る列車を父と待つ。今は、あの頃以上に、さびれた駅だろう。僕は彼女に値しない男だった。子供たちに対しても。今となっては、取り返しがつかない。永遠に…〉

 

アンリエットは、単語に使われる頻度の高い順に並んだアルファベットの文字を順番に読み上げ、該当する文字に瞬きをさせて、単語と文章を作り上げるという作業を開始した。

 

理学療法士のマリーからは、舌の動きを指導され、麻痺した感覚を取り戻す治療が行われれる。

 

ある日、かつてジャン=ドーが飛行機の席を譲ったことで、ベイルートの人質事件に巻き込まれた男が訪ねて来た。

 

「あなたに起きたことを知り、どうしても、私の、あの体験をお話ししたくて」

 

4年間拘束された男は、人質が今のジャン=ドーと近い状況だと言うのだ。

 

「絶望し、怒り、命を絶とうとさえ思った…最もつらいのは、何もせず待つこと…だが、私は生き抜いた。私の中の“人間性”を決して捨てまいとしたから。私に残されたのは、それだけ。あなたも同じだろう。あなたの中に残された“人間性”にしがみつけば、生き抜ける…それを伝えたかった」

 

人間性か…言うのは簡単だ。帰国した彼に、なぜ電話しなかった?罪の意識のせいだ。僕は、たまらなく恥ずかしい〉

 

アンリエットの言語指導の際に、「死にたい」という文字を並べたジャン=ドー。

 

「死にたいんですか?なぜ、そんなことを?みんな、あなたのことが好きなのに。あなたは私にとって、大切な存在よ。死にたいなんて、言わないで。失礼よ。許せないわ」

 

部屋を出て行ったアリエットは、ジャン=ドーの元に戻り、言い過ぎたと謝罪する。

 

〈僕の人生は、小さな失敗の連続のように思える…悲惨な運命のおかげで、僕は自分の本質に気づいたのか〉

 

その後も、アンリエットの言語能力向上のための訓練は続く。    

 

ここから、カメラはジャン=ドーの視線を離れ、客体化していく。   

 

 〈僕は、もう自分を憐れむのはやめた。左目のほかにも、麻痺していないものが2つ。想像力と記憶だ。想像力と記憶で、僕は“潜水服”から抜け出せる。想像力で、僕は、時や場所を超える。マルチニックの波に身をゆだね、愛する女と共にすごす…想像力は無限に広がる。幼い日の夢を叶え、大人の憧れを実現し、なりたかった自分になれる〉

 

ジャン=ドーはアリエットを代理にして、出版社に電話をかけ、出版契約の履行を申し出た。

 

口述筆記者としてクロードが派遣され、ジャン=ドーの執筆作業が始まった。

 

〈頭が鉄のように重く、潜水服を着たように、体が動かない。動けぬまま、僕は旅の手記を書く。孤独の彼方に、漂流する者の目で…〉

 

ジャン=ドーのリハビリが続く中、クロードによる口述筆記も進められていく。

 

事故の直前に、父親の髭を剃った時の回想。

 

「お前を誇りに思う。心から誇らしいよ」

 

〈父親に認められると、昔から安心できた。今は、より一層そう思う。人は皆、子供だ。認めてほしいのだ。子供たちに会いたい。僕の子供たちに〉

 

父の日に、セリーヌが3人の子供たちを連れて、病院を訪ねて来た。 

 

海岸で遊ぶ子供たち。

 

 〈唇から流れるヨダレを、息子が拭く。かつては、こんな祭日など、うっとうしかった〉

 

セリーヌがアルファベットから言葉を拾い、子供たちも共有する。

 

4人が帰った後の、残された病室で、ジャン=ドーは思いを綴る。

 

〈この悲しみは、表す言葉はない。僕は父親なのに、子供たちに髪をなでたり、うなじに触れたり、小さな体を抱きしめることもできない。でも、姿を見るだけで幸せだ。笑い声を聞くだけで。すばらしい一日だ〉

 

人生論的映画評論・続: 潜水服は蝶の夢を見る('07)   「想像力」と「記憶」を駆使し、窮屈な“潜水服”の状態から抜け出ていく  ジュリアン・シュナーベル