1 「あなた、秘密があるのね。それを私にください。それが欲しいんです。私、それがとても良いものに違いないと思うから」
「満州事変をキッカケとして、軍閥・財閥・官僚は帝国主義的侵略の野望を強行するために、国内の思想統一を目論見、彼等の侵略主義に反する一切の思想を『赤』なりとして弾圧した。『京大事件』もその一つであった。この映画は、同事件に取材したものであるが、登場人物は凡て、作者の創造である」
京大教授令嬢の八木原幸枝(以下、幸枝)は、父親の教え子らと共に、京大を見下ろす吉田山へのピクニックを楽しみ、青春を謳歌していた。
丘の上で学生たちが休んでいると、突然、軍事教練の銃声が聞こえてきた。
「自由の学園、学問の自由なんて、のんびり謳ってられるのも今のうちさ。ファッショの嵐が吹き始めてるんだ。満州事変をきっかけに」と野毛(のげ)。
「また野毛さんの十八番が始まった…」と幸枝(ゆきえ)。
野毛に嫌味を言った幸枝は、糸川に「演習かしら」と声をかけ、兵隊が見える方へとスキップして行く。
「あんな音、大好き!歯切れが良くて、リズミカルで、胸がスッとするわ!」
突然、足を止めた幸枝は足元に血を流す兵隊を見つけ、凍り付く。
昭和8年
そんな折、八木原教授が教壇を追われる事件が起こった。
八木原の家では、いつものように満州事変と軍閥・財閥を批判する野毛に対し、幸枝が「左翼の人、私、嫌い」と言い放って毒づく。
糸川は黙って二人の会話を聞いている。
「父は自由主義者です。アカじゃありません!」
「侵略主義に反対な思想は、彼等には凡てアカですよ…軍閥の侵略主義の裏付けとして巻き起こされた事件なのだから、その侵略主義、軍国主義に打倒の旗の元に闘われるべきだと言うんです。なのに、いくら僕たちが口を酸っぱくして言っても、先生は聞いて下さらない…」
「止めましょう、こんな退屈な話。私、野毛さんが考えてるように、この世の中がそんな理屈ばかりで出来ていると思わないわ。もっと美しいものだって、楽しいものだってあるはずだわ」
沈黙している糸川を誘って、音楽を聴こうとするが、野毛の強烈な一言に血相を変える。
「その鼻っ張りが、一度ペシャンコにへし折られない限り、あなたには発展はないな」
野毛の指摘を無視して、幸枝は激しい調子でピアノを弾き始めた。
そんな幸枝を見つめる野毛は、黙って家を出る際に、ちょうど帰って来た八木原に、「自分はやるところまで断じてやる」と伝えて去って行く。
幸枝は糸川に楽譜のページを捲(めく)らせ、激情的にピアノを弾いたかと思えば、突然止め、今度は煙草をくわえ、糸川が火をつけようとするとそれも止め、更に、何でもいいから頭をテーブルにつけて謝ってくれと糸川に懇願し、実際にやろうとすると泣き顔になって止めさせる、という支離滅裂な行動で糸川を翻弄する。
野毛のことなど気に掛けるなと幸枝を慰める糸川。
「あいつは無遠慮だからな。誰に向かってもズケズケ言うんですよ」
「いいじゃない。野毛さんは本当のことを言っただけよ。あなたには、あれだけのことは言えないわ」
一方、野毛は学生たちを集め、ファシズム反対闘争の中心メンバーとして運動を展開していくが、教授たちは弾圧に屈し、学生たちは一斉に検挙、逮捕され、「京大事件」は終息していく。
この騒動は世にいう「滝川事件」のこと。
【「滝川事件」とは、満州事変以降の思想統制の下、1932年から1933年にかけて、裁判所の判事・書記などが治安維持法違反によって逮捕された「司法官赤化事件」に端を発し、時の鳩山一郎文相が京都帝国大学法学部教授・瀧川幸辰(たきかわゆきとき)の著書(「刑法講義」と「刑法読本」)が赤化思想であるとして、罷免した事件のこと。京大法学部は全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局・他学部は法学部教授会の立場を支持せずに運動は崩壊した】
当の八木原教授は全学生を前に講演する。
「諸君。どうか冷静に事態を考えて頂きたい。無論、我々は敗北した。しかし、諸君、正義は必ず勝つ。今年の花は散ったが、時期が来たら、また爛漫と咲くのである。人間、如何なる事態に遭遇しても、その中から何事かを学び取るという心掛けが大事です。我々が反動の嵐に抗し、生き抜いていくことの中にも、必ずや希少なる人生体験になることを知らなければなりません」
いつもの八木原教授の元に集う学生たちの中に、野毛と糸川の姿がなかった。
糸川は母に家計が切迫している実情と、息子の卒業を心待ちにしている心情を明かされ、八木原宅の集いへの参加を留まったのだった。
学生たちの帰り際、欠席した野毛が既に大学を辞め、左翼運動に挺身していることを聞かされた幸枝は、衝撃を受ける。
その話を聞いた八木原夫妻も、思い詰めている幸枝の身を深く案じる。
その幸枝の元に、父と学生たちとの話し合いの結果を聞きに糸川が訪ねて来た。
幸枝に、退学してまで学生運動を継続することに反対する教授の考えに、学生たちが納得したと聞かされた糸川は、「助かった」と吐露し、安堵の笑みを浮かべる。
「良かったわね。裏切り者にならずに済んで」
辛辣な幸枝の痛烈な皮肉に固まる糸川は黙って一旦帰るが、すぐに戻り、「お嬢さんには分からない」と言い残して、去って行く。
昭和13年
花嫁修業をしたり、タイプライターを習ったりする幸枝は、満たされない日々にフラストレーションを溜めている。
教授を辞職した八木原は自宅で法律事務所を開業し、一般大衆の法律の無料相談に応じていた。
そんな八木原宅に、検事となった糸川が八木原一家と会食するのために訪れ、無料相談を問題視すると、八木原は声を荒げて反発する。
そこで糸川は、今度、野毛を連れて来ると話すと、幸枝は動揺する。
幸枝は糸川を送りながら、野毛を連れて来ない方がいいと、その胸の内を告白する。
「あたし、怖いのよ…たとえばね。あなたの後に付いていけば、平穏無事な、でも、ごめんなさい…少し退屈な生活があると思うのよ」
「野毛なら?」
「野毛さんに付いていけば、何か、こう、ギラギラした目の眩(くら)むような生活がありそうだわ…怖いけれど、これは魅力よ」
糸川は声を上げて笑う。
「昔の野毛と、今の野毛は別人ですよ。5年の月日のうちに、人間がどれくらい変わるか…あなただって、そんなに大人しくなったじゃないですか」
しかも、野毛には刑務所という特別な年月(としつき)が挟まっていると言うのだ。
後日、糸川が野毛を連れて八木原家を訪れ、野毛は快活に話に興じる。
「獄中ではいい勉強をして来ました。哲学史と日本の古典を落ち着いて読むことができまして…」
野毛は、糸川が検事であったことに助けられ、偽装転向して釈放され、軍の仕事をするようになったと言う。
「結局、人間は弱いんですな。これは責める気持ちはないが、昔の野毛は何て言ったらいいか、一段と高い所から威圧するような…」
糸川と一緒に笑顔で会話する野毛。
かつての野毛ではないことに落胆した幸枝は席を外し、自室へ戻ってしまう。
母親に促され、葛藤した末、支那へ行くという野毛に見送りの挨拶をする。
糸川と帰る道で、「来るんじゃなかった」と呟く野毛。
その夜、幸枝が家を出て行くと言い出し、野毛への気持ちを理解する母親が憂虞する。
「東京へ出て、自活するって言うんです…あの子は心に思っていることと、あべこべのことをよくやる性質(たち)なんです」
糸川との縁談に気乗りしないと言う八木原は、家を出る準備をしている幸枝の部屋へ行って声をかけると、突然、幸枝が泣き出すのだ。
「私、何もかも嫌なんです…何もかも、新しく生きていきたいんです」
「世の中は、お前が考えてるような、生易しいものじゃないよ」
「分かってます。ただ、今の私なんか、生きてないのも同じことだと思うんです。せめて、世の中に入って、生きるということはどんなことか、自分で確かめてみたいんです」
「そこまで考えたなら、いいだろう。自分で自分の生きる道を切り開いていくことは、そりゃ、尊いことだ。しかしな、幸枝。自分の行いに対しては、あくまで責任を持たなきゃいけないぞ。自由は闘い育てていくものであり、その裏には、苦しい犠牲と責任があることを忘れちゃいかん」
昭和16年
東京で貿易会社に勤めていた幸枝は糸川と遭遇し、夕食を共にする。
糸川は結婚し、もうすぐ父親になると言い、野毛も東京にいて、築地に東亜政治経済問題研究所の事務所を構え、支那問題の権威として政財界にも信任されていると話す。
幸枝は早速、野毛の事務所を訪ねるが、会えずに帰るものの、その後も、何度もそのビルまで足を運ぶのだった。
ディゾルブ(カットのフェードアウトと次のカットがフェードインする)の手法が駆使されていて、新鮮な印象を残す。
ある日、野毛と再会した幸枝は、東京に来て3年の間に職場を3つ替えたが、食べていくためだけだったと吐露する。
「私、何か、この体も心も何もかも投げ出せる、そういう仕事がしたいんです。家を出る時、父が言いましたわ。華やかに見える自由の裏には、苦しい犠牲と責任のあることを知れって。私、そういう仕事が欲しいんです」
「難しいですね」
「あなた、秘密があるのね。それを私にください。それが欲しいんです。私、それがとても良いものに違いないと思うから」
「あなたは、どうかしてますよ。僕のことを、そんなに空想的に考えるなんて」
「もう、そんなに虐めないで!私、昔はそりゃぁ、何でもふざけて考えていたわ。でも今…」
それでも、押し黙る野毛。
「あたし、バカね。急に秘密が欲しいなんて。厚かましいのね、本当に…もういいのよ。ただ、心配なんですけれど…」
「あなたの言う意味は、よく分からんけど…ここに、当局から睨まれるような、そういう仕事をしている男があったとしてですね…その日は明日にも、一時間先にも来るかも知れない。ただ、その間にやれるだけのことを慌てずにやるだけでしょう」
それを聞いて、走って去る幸枝を追い駆け、野毛は言い切った。
「僕はこうなるのが怖かったんです。行き先はそれほど険しいんです」
「いいの。私は平気よ」
国家権力と毅然と闘うと思しき野毛の生き方に共感する幸枝には今や、かつての我儘な令嬢の片鱗が垣間見えなかった。