1 ユング心理学を必要とした芸術家の立ち上げ
ユング心理学の重要な概念の一つに、「アクティヴ・イマジネーション」、即ち、「能動的想像法」と呼ばれるものがある。
「リビドー」を「性」に還元するフロイトの思想と決別した後、カール・グスタフ・ユングが自らの病的体験を癒す方法として摂取した方法論、それが「能動的想像法」である。
要するに、「無意識世界」から生まれた様々なイメージを、自分の内側で観察・記録・対話していくことで、それまでにない新しい自己を発見するという、人生に対する能動的な関与の戦略であると言っていい。
夢から啓示を得る、アメリカインディアンの伝統儀式として有名な「ビジョンクエスト」の有効性は、彼らの生存・適応戦略であるが故に何の不都合もないが、夢を抑圧された性的願望の発現と捉えるフロイトの把握を論外とする私などは、夢の働きとは、人間の欲望、願望や不安の表出を含め、過去に埋もれた様々な記憶の処理であると割り切っているので、特段に「能動的想像法」を必要としない人間である。
自分の夢を分析することは多々あるものの、多くの場合、一過的な時間限定の分析処理で終わってしまうから気楽なものである。
「ユング心理学に深入りする者は、一度は悪魔や天使が棲む世界にほんとうに足を踏み入れて、生身の体でもう一度この世界に出て来たい、と思うときがある」(樋口和彦・日本ユング心理学研究所所長・書評より)
非言語的な「箱庭療法」を導入した河合隼雄の尽力もあって、その包容力のある思想故か、日本人に人気があると言われる、ユング心理学の魅力を言い当てた一文だ。
そのユング心理学の中枢概念として有名な「元型」とは、「集合的無意識」のカテゴリーの中にあって、時空を超越するイメージの表出の母胎になる存在のことで、溢れる夢のイメージの象徴性を持つ源泉でもある。
このユング心理学に深く傾倒した芸術家が多いのは、彼らの自由な想像力を掻き立てるからだろう。
とりわけ、前世紀を代表する芸術思潮の一つであるシュールレアリスムが有名だが、サルバドール・ダリ、アンドレ・ブルトン等々、ユング心理学の「アクティヴ・イマジネーション」は、当時の芸術家の心を鷲掴みにし、表現意欲を掻き立てている。
当然、映像作家もその例外ではなかった。
そのような映像作家の一人に、フェリーニがいる。
彼は書いている。
「ユングの本を何冊か読み、彼の人生の見方を発見したことは、私には一種の喜ばしい啓示だった。自分でもその一部分を前から考えていたある思想が、予期しない時に、素晴らしい形で確認ができて、私は熱狂した。ドイツの精神療法家ベンハルト教授のおかげで、私はこの刺激的で魅力的で幸運な出会いに恵まれることになった。ユングの思想が『81/2』以降の私の作品に影響を与えているかどうか分らない。ただ彼の本を何冊か読んだことは意識の深層との接触を容易にし、空想力をかきたてる刺激になった、と言うことはできる。私は以前から、何ごとにも全体的な考えを持てない、という自分の限界を感じてきた。好み、趣味、欲望を、部門や範疇に分けて組織する能力は、私にはまったく無縁のものだった。だが、ユングを読んで、こうした限界のために抱いていた罪悪感や劣等感から解放され、自由になったと思う」(「フェリーニ、映画を語る」フェデリコ・フェリーニ、ジョヴァンニ・グラッツィーニ著 竹内博英訳 筑摩書房)
フェリーニもまた、ユング心理学を必要とした芸術家であったということだ。
なぜなら、「ユングを読んで、こうした限界のために抱いていた罪悪感や劣等感から解放され、自由になったと思う」ような、高度な人間の想像性に富んだ構築力を要求される映像表現世界の只中に、彼もまた捕捉されていたからである。
「私はもう一度作りたいとは思わないね。撮影開始の直前に、私は何がなんだか分からなくなって絶望状態に陥り・・・(中略)最後の何週間か、私は不安にせめたてられながら、その映画の構想を得た過程をさかのぼろうとした」(前掲書)
これが、「道」(1954年製作)、「カビリアの夜」(1957年製作)、「甘い生活」(1960年製作)などの作品で世界的な映画監督の地位を得ていた、フェリーニ自身の述懐である。
そんな男が苦悶した「その映画の構想」の逢着点は、以下の述懐で、より明瞭になるだろう。
「その映画には題名さえつけられなかったから、メモを収めた紙ばさみには、その時までに作った映画の数をかぞえ、仮に『81/2』と書いておいた(中略)確かある男の何の変哲もない一日を描きたいという、漠然としたあいまいな考え方があった。私は心の中で言った。そう、矛盾し、ぼやけた、捕え難い、様々な現実の総和の中で、ある男を描くのだ。その中では、日々の考えや意識の深層など、男の存在のあらゆる可能性が透けて見える」(前掲書)
そして彼は、ここまで追い詰められていた当時の心境を語るのだ。
「私は作ろうと思った映画がどんなものか分からなくなってしまった映画監督だった。するとちょうどその時、全てが解決された。私は不意に映画の確信に踏みこんだ。今、自分自身に起きていることを語ればいい。どんな映画を作ろうとしていたか分からなくなった映画監督の話を映画にすればいいのだ」(前掲書)
世界に衝撃を与えたその作品の名は、「81/2」。
無秩序な印象を与えるその映画のプロットラインを、以下、フォローしていこう。
2 「“閃きの危機”が、このまま続いたらどうなる?」
渋滞の街路で、人々の視線を受け、充満する排気ガスの車中から脱出しようと足掻く男。
無音で沈黙の画面であるのは、車中でフロントガラスを叩く男の内側から映像が構成されているからだ。
男を囲繞する車中の者たちは、本作の登場人物である。
彼らは唯、男を凝視するだけで、救いの手を差し伸べない。
苦闘の末に、車中から脱出した男は、大空を飛翔する。
しかし男は、地上から巻きつかれたロープによって引っ張られ、敢え無く落下するに至った。
男の名はグイド。
著明な映画監督であり、フェリーニ自身でもある。
以上のファーストシーンの中に、「私は作ろうと思った映画がどんなものか分からなくなってしまった映画監督だ」と作り手が述懐する、本作の主題の全てが凝縮されていると言っていい。
ともあれ、このとき悪夢から生還した男は、鉱泉水を飲むようにアドバイスする医師の助言で温泉に行く。
鉱泉水を飲みに来た男に、美女がコップで手渡しするが、幻想だった。
この美女の名はクラウディア。
本作の重要な場面で登場するが、彼女のイメージは「聖女」に近い。
物語を続ける。
「前衛映画としての長所もなく、その欠点だけを持っている」
脚本家で批評家のドーミエが絡んできて、映画を創れないで悩むグイドに嫌味を言うのみ。
また温泉に愛人のカルラが来て、「鉄道ホテル」に宿泊し、情事に及ぶが、男にとってこの女が情欲の対象以外ではないことが判然とする。
ここで突然、画面が静謐になり、死んだ父が出現するのだ。
死んだ父は息子を心配するが、地中に潜って去ってしまう。
グイドは墓参の母と再会し、抱擁するが、突然、妻のルイザの顔になる。
映像の中にしばしば現出するルイザの存在は、一応、夫の良き理解者であるが、保護・監視の役割を担っているようだ。
そして、変転著しい画面は、映画関係者たちからの質問攻めやオファー、批評や注文、更にキャスティング、脚本の問題等々、騒がしいシークエンスが続く。
湯治場での過剰なクロスは、結局、映画監督の男に安寧の地がないことを示唆するものである。
「霊感の欠如。それが一時的なものでなく、君はもうおしまいだとしたら…」
そこに「聖女」のイメージを持つ、鉱泉水を手渡ししたクラウディアが現れ、グイドの煩悶に寄り添ってくれるのだ。
「彼女を純粋さのシンボルに?だが純粋さ、誠実とはいったい何だ。シンボリズムはもう古い。純粋無垢崇拝も。ではどうする…」
床に入るグイドにクラウディアは言葉を添えていく。
「ずっとここにいる。きちんとしたい。清潔にしたいの」
ところが、「鉄道ホテル」のカルラから電話が入り、鉱泉水を飲んだことによる気分の悪さを訴えられ、日常性というカオスへ逆戻りしてしまう。
「作ろうと思った映画がどんなものか分らなくなってしまった映画監督」の苦悩は、延長されるばかりなのだ。
「映画の主人公はカトリックの教育を受け、それにより劣等感を抱く。枢機卿は真理の託宣者で、彼はそれに魅了され救いを求める」
そんなことを聖職者に吐露する。
「そもそも映画で宗教を表現するのは難しい。魂を汚すのも、浄化するのもあなた次第です」
聖職者は、それ以外の答えを持たない。
行き詰まりを打開するため、グイドは枢機卿に教えを請いに行く。2
聖職者の案内で、枢機卿に教えを請うグイドだが、鳥の囀(さえず)りを聞かされるだけ。
枢機卿の話を聞いていたとき、坂道を下る肥満の中年女の足を見たグイドは少年時代を想起する。
神学校時代のこと。
聖職者から「悪魔」と決めつけられ、浜に住み、身寄りがなく豊満なサラギーナに金を渡してルンバを踊らさせを愉悦していた神学校時代のグイドへのペナルティは、「恥を知れ」と書かれた用紙を背に貼られた姿で教室に入って来って折檻を受けるエピソード。
「恥を知れ。地獄に堕ちる」という大人たちの非難に交じって、「恥知らず」と嘆く母の嗚咽が拾われた。
このエピソードを映画化しようと考えるグイドに対して、辛辣な脚本家のドーミエは「子供時代の罪のない思い出を描いて何になる。君は郷愁に浸ってるだけだ。人畜無害な個人的追憶に」と一刀両断し、グイドの甘さが露呈されるのみ。
タオルで身を包んだ湯治場の大群の中で、枢機卿に呼び出されたグイドは、「教会の外に救いなし。何者も救われぬ。神の国に使えぬ者は悪魔にくみする者である」と諭される。10
到着した妻ルイザを出迎え、社交ダンスを踊りながら、「仕事はどう❔」と聞かれ「それが全然進まない」と答えるグイド。
SF映画の制作現場でのこと。
以下、女性関係の嫉妬に起因するのか、急に態度が変わったルイザのことを案じながら、ルイザの親友に吐露するグイド。
「決めてたんだ。嘘や妥協のない正直な映画を作りたいと…我々の内部で死んでるものをすべて葬り去る映画だ。だが、僕自身が過去を葬り去れない。塔ができた今になっても混乱している。なぜ、こんなことに…どこで間違えた…」
グイドとルイザは険悪になった状態を延長させ、ベッドで背を向け合い、遂に口論になってしまう。「道徳家ぶって何になる」「何にも。私たちはもうおしまいよ」「僕はやり直したくなどない」「あなたこそ、人を呼び寄せて、一体どうする気なの」
二人は離れたベッドに潜り込むだけだった。
映画製作や夫婦関係など、いよいよ追い詰められる映画監督が、そこにいた。
人生論的映画評論・続: 81/2(‘63) 「人生は祭りだ。共に生きよう」 フェデリコ・フェリーニ