キツツキと雨(‘11)  沖田修一 <非日常の「祭り」の世界に変換された「異文化交流」の物語>

イメージ 11  非日常の「祭り」の世界に変換された「異文化交流」の物語



ここでは、殆ど大袈裟な事件・事故が惹起しない、緩やかに、淡々と進む映画のストーリーラインから書いていく。

以下、本篇の簡単な梗概。

3年前に、病気で妻を喪った、「林業一筋」の初老の男・克彦は、無職の一人息子・浩一と、一見、会話の乏しい味気ない生活を送っていた。

折しも、克彦は、ゾンビ映画の撮影隊の一行と知り合いになり、当初、全く気乗りがしなかったが、ゾンビ役を乞われ、そのラッシュフィルムを観てから、俄然、映画撮影に関心を抱き、いつしか、スタッフの一員として撮影隊に溶け込んでいくばかりか、村民たちをも駆り出す熱の入れようだった。

駆り出された村民たちも、平凡な村の日常性が、非日常の「祭り」の世界に変換されて、その時間を束の間、身体疾駆し、存分に「異文化交流」を愉悦する。

既に、一人息子の浩一と派手なバトルを繰り広げた挙句、家出した息子に代わって具現したかのように、克彦は、撮影隊の「25歳の内気な新米監督」・幸一との関係を繋いでいた。
 
新米監督・幸一との「異文化交流」の中で、ピアプレッシャーに弱い「現代の若者たち」のが開示する風景の一端に触れて、自己を相対化できるようになり、息子への視線が柔和になっていく。

 

 2  「現実自己」と「理想自己」、或いは、「現実自己」と「義務自己」の乖離の居心地の悪さ



以下、「癒し系」にカテゴライズされるだろう、そんな緩々系全開の、映画の基本骨格を考えていく。

「異文化交流」の中で、お互いに影響し合った者たちが、彼らに関与する周囲の風景を変容させていくというパターンは、殆ど定番的だが、しかし、この映画は決して悪くない。

親子ほどの年齢差がある二人の男が、その距離感を埋めていく心的行程の様態が、幾分か、戯画的絵柄を拾い上げつつも、基本・ハートフル・コメディの柔和な筆致を崩すことなく、且つ、無駄な描写を極力削り取りながら、殊の外、丁寧に描かれていたからである。

「異文化交流」を通して、一方は、自分の息子に対する狭隘な認知から不必要な棘を抜き取り、また他方は、その男との何気ない日常会話等を通して、「現実自己」が負った過剰なまでに重い荷物を下ろしていく。

両者共に、相対的な水平思考を内化することで、それぞれの自我に張り付く余分な負荷を無化していくのである。

言うまでもなく、前者は、役所広司扮する、「林業一筋」の初老の男・克彦であり、後者は、小栗旬扮する、「25歳の内気な新米監督」・幸一である。

林業一筋」の男・克彦には、本来的に、捩れ切った屈折的自我と無縁であり、無骨だが、過度な「偏見居士」や、頑固な「観念居士」でなかったこと ―― これが、異文化が誘(いざな)う風景への、男の溶融を可能にした心理的因子であると言っていい。

この男の分りやすいキャラと些か切れて、ここでは、「25歳の内気な新米監督」・幸一の内面世界が由々しきテーマになると思われるので、簡単に言及したい。

この「25歳の内気な新米監督」・幸一の、自らの「仕事」に全身投入し切れない心理を、私はコロンビア大学の教授・トリー・ヒギンスが提示した、「セルフ・ディスクレパンシー理論」によって説明できると考えている。

即ち、「現実自己」と「理想自己」の乖離が苦しみや哀しみを生み、「現実自己」と「義務自己」の乖離が不安や恐怖を生む、という現代心理学の興味深い仮説である。
 
まさに、25歳の幸一は、初めて任された、映画監督としての栄誉を具現できるという「理想自己」が、それに負担を感じる「現実自己」との乖離によって、本来は、「楽しい仕事」であるはずの未知のゾーンから下降してくる、負荷のシャワーの連射に煩悶する。

また、「この仕事を遂行させなければ、もう、自分にはチャンスがない」とか、「撮影スタッフや出演者に、決して迷惑をかけてはならない」などという「義務自己」が、「現実自己」に襲いかかってきて、彼のために用意されたディレクターズチェアにも座れずに、「すみません」という、信じ難き言葉が常套句になっていたネガティブな風景が遂に破綻し、「前線逃亡」を図り、惨めに頓挫する。

ナイーブな若者ゆえに非武装性丸出しの、脆弱な「25歳の内気な新米監督」にとって、無骨だが、包括力のある、人生経験豊富な男との出会いは、台本の最後の余白に、大きく「自分」と書かねばならないほどに、「現実自己」との乖離に悩む自我の空洞を埋めるに足る、「話しやすい相談者」としての存在感を弥(いや)増していく。

人生経験豊富な「話しやすい相談者」にもまた、この時期の普通の難しさの範疇にある息子との、円滑なコミュニケーションが取れない日常性を常態化していて、遂には、「内気な新米監督」と同名の息子の「家出事件」を惹起する。

「本当に出ていくぞ!」
「出ていけ!」
 
それだけだった。

既に、一人息子の浩一と派手なバトルを繰り広げていた克彦には、仕事を辞め、定職に就かない浩一の日常の風景が宙ぶらりんに見え、憤りを隠せないでいた。

ところが、「家出事件」を惹起した浩一が、亡き母の三回忌の前日には、父子二人分の喪服を用意して、帰郷するに至る。

東京に行くと言って家を出た浩一に何があったかについて、映像は何も提示しないが、少なくとも彼が、亡き母の三回忌を忘れない程度には、実家との関係の情感濃度が保持されていた事実だけは確認できるだろう。

この伏線は、翌日の三回忌のシーンで回収されていくが、これは重要なので後述する。

ここで、物語の本線に戻る。

克彦と新米監督・幸一との絡みである。

この二人が、なお、露天風呂での物理的距離感を保持しつつも、台本を読んで泣いたという克彦との、その心理的距離感が縮まりつつあったときの興味深い会話がある。

自然溢れる屋外で、弁当を食べるシーンでのこと。

「幸一君はよ、幾つやの?」
「あ、25ですけど」
「あーそー」
「何すか?若いって、言いたいんですか?」

「間」ができる。
 
向こうに見える松の木を指さして、克彦はさりげなく話を繋いでいく。

「あすこに、松が生えとるやろ」
「あれが松ですか?」
「あれが松だよ。バカやろう。あの、左から二番目のあるだろ。あれが大体、25年かそこらや。その横を3ついったのが、大体60年で、俺やな」
「どれですか?」
「横3ついけよ。どうや」
「あんま、かわんないっすねぇ」
「木が一人前になるのに、ざっと100年はかかるでな」

こんな何気ない会話を通して、「現実自己」と「義務自己」の乖離によって、不安や恐怖を、内側に不必要なまでに押し込んでいた幸一の心が、間違いなく相対化されていく。

「俺はまだ、25歳の新米監督だから、幾らでも失敗してもいいし、恥をかいても当然なのだ」

そう思ってしまえば、もう、怖いものなどない。

「現実自己」と「理想自己」の乖離を、「理想自己」に「現実自己」を無理に合わせていくのではなく、逆に、「現実自己」に「理想自己」を擦り合わせていけばいいのだ。

そんな心境の近くに、ようやく届き得たのである。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/キツツキと雨(‘11)  沖田修一 <非日常の「祭り」の世界に変換された「異文化交流」の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/02/11.html