流れる('56) 成瀬巳喜男  <今まさに失わんとする者たち>

 「流れる」は残酷な作品である。

 しかしその残酷さは、成瀬的映像宇宙の支配下にあって、ごく通常の人生模様の断面でしかない。

 成瀬は一切の奇麗事な装飾を、その作品群から潔いまでに剥(は)ぎ取っている。そこで剥ぎ取られて残ったものだけが、成瀬にとって人生の真実だった。剥ぎ取られることで残された人生の真実には、残酷さのイメージこそが相応しい。

 人生は思うようにならないのだ。それでも人は生きていく。残酷さに満ちた人生の隙間に、僅かばかりの温もりを求めるために生きていく。程度の差こそあれ、温もりのない人生は存在しない。だから生きていけるのだ。

 逆に言えば、「温もりのない残酷なる人生」だからこそ人は死を選ぶ。死を選ばないで、それぞれの固有なる時間と繋がっている人だけが、そこに生きている。今、生きている。それだけのことなのだ。それ以外に、人生を解釈する言葉は不要なのである。

 「流れる」の残酷さは、一連の成瀬作品で繰り返し描かれている関係幻想の壊れやすさ、脆弱さを主題にすることから浮き彫りにされた何かである。少なくとも、私はそう把握している。
 
(人生論的映画評論/「流れる('56) 成瀬巳喜男  <今まさに失わんとする者たち>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/blog-post_5912.html