太陽の年('84) クシシュトフ・ザヌーシ <お伽話を突き抜けて―「純愛ドラマ」の究極なる括り>

18年後、そんな女のもとに男から金が届けられた。

 修道院にあって既に年老いたが、自らの幸福を遮蔽する何ものも持たない女は、男の待つアメリカに旅立とうとした。その瞬間、いかにも初老の小さな身体が崩れ落ちていった。決定的な飛翔のとき、女にはそれを支える行動体力が備わっていなかったのである。

 債務感情から完全に解き放たれなければ駆けようとしない女の幸福は、最後までイメージの世界でしか生きられなかったのである。それもまた人生なのだ。女の愛を信じて疑わない男の、その抜きん出た誠実さと一途さは殆んど奇跡的だったが、嵌るべくして嵌った男女の求心力によって支えられた物語のラインが、一篇のお伽話を突き抜けたとも言えようか。
 
 この映画は二人の演技者の、殆どそれ以外にない圧倒的な表現力によって映像を支配した一級の人間ドラマであった。

 彼らの抑制された表現の内に、様々にプールされた感情が溜められていて、それがラストのダンスの場面で爆発する括りは、一つの最も重要な描写に繋がっていく、言語を超えた心と心のクロスの時間が集中的に束ねられ、遂にそれが、うねりを上げて澎湃(ほうはい)する決定的な構図であったと言えるだろう。

 観る者の脳裏には、決定的な勝負を制した映像の眩い輝きが、いつまでも残像として張り付いて止まないのである。
 
(人生論的映画評論/「太陽の年('84) クシシュトフ・ザヌーシ  お伽話を突き抜けて―「純愛ドラマ」の究極なる括り>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/blog-post_24.html