やはりこれは、「純愛一直線」という単純な括りで片付けられる映画では決してない。
吉岡夫人は、松五郎を最後まで異性の対象として見ることはなかった。男の親切に対して、夫人は一貫して、謝礼金という形でしか恩に報いることをしなかったのである。
その行為は、「分」を弁(わきま)えた夫人の礼節の証であって、それ以外の何ものでもなかった。
吉岡夫人は、松五郎を最後まで異性の対象として見ることはなかった。男の親切に対して、夫人は一貫して、謝礼金という形でしか恩に報いることをしなかったのである。
その行為は、「分」を弁(わきま)えた夫人の礼節の証であって、それ以外の何ものでもなかった。
或いは、薄々男の感情を汲み取っていたかも知れないが、亡夫への貞節を守るという退路を確保することで、恐らく夫人は、確信的に男の感情の侵入を拒んだのである。
全く隙を見せなかった夫人の態度の堅固な壁を前にして、男は夫人の息子を鍛えるという通路を抉(こ)じ開けるのが精一杯だった。
全く隙を見せなかった夫人の態度の堅固な壁を前にして、男は夫人の息子を鍛えるという通路を抉(こ)じ開けるのが精一杯だった。
その息子が去った後、男は心の空洞を埋めるのに、飲酒以外の処方を持たなかった。
飲酒で心臓を患った父親を反面教師にして、暫く禁酒していたその男が飲酒に逃げる心の寂寥感は、あまりに哀切すぎる。
それもまた、男が選択した人生の結果なのである。それ以外ではないのだ。
(人生論的映画評論/「無法松の一生('58) 稲垣 浩 <「分」の抑制力を突き抜けたとき>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/blog-post_23.html