殺人の追憶('03) ボン・ジュノ  <追い詰めゆく者が追い詰められて――状況心理の差異が炙り出したもの>

 映像それ自身のラストシーン。

 恐らく、忌まわしい事件を機に、その職を辞したと想像されるパク元刑事が、偶(たま)さか通り過ぎた震源地となった村で、営業車を降りた。彼はその足で、水田脇の水路を覗く。それこそ事件の発生点となった場所である。

 その水路の中を凝視しても、そこには当然何もない。蛆虫の蝟集(いしゅう)する若い女性死体の障害物が除去された風景は、開かれた視界の届く無機質の造形のシンプルなラインであった。恰もそれは、相対的に風通しの良い、「新しい韓国」をイメージさせる風景であるかのようだった。

 しかし男がそこでクロスしたのは、明らかに思い出したくもない過去の記憶の生々しい残像だった。通りがかりの少女からの驚くべき情報に、男の表情が凍てつく。しかし少女の目撃情報の内実は空疎なものだった。最近、同じようにして水路を覗いた男のイメージは、「普通の顔」でしかなかったのである。

 この言葉が意味するのは、事件がなお、迷妄の森の中で彷徨(さまよ)っているという事実以外ではない。 時代がシフトしているのに、時間が動かないエリアがこの国に存在する事実に、男は戦慄するばかりだった。

 男が第二の人生をそれなりに成功していたという事実は、あの忌まわしき事件が、男の自我を壊すほどのトラウマになっていないことを充分に想像させる。

 思えば、男は事件の最大のクライマックスの状況下で、半ば戦線離脱の状態であったのだ。男の自我は、刑事としての能力を既に自己否定した分だけ、そこに深い傷跡を刻むことがなかったのであろう。だからこそ、半ば忘れかけていた陰鬱なる村の、陰鬱なる現場にその身を束の間預け入れたのである。
 
 この男に始まって、この男に終わった物語。

 それは、ガラスの破片で反射させなければ、その中が見えないような長く伸びた水路で始まって、今やそこに、どのような遮蔽物をも見出せない見通しの良い水路で終わった物語。

 そこには、「古い韓国」と「新しい韓国」を分ける、17年間にも及ぶ時間が内包した歴史の重みが存在するであろう現実が、具象化されたイメージの内に瞭然と検証できるのであろうか。
 
 
(人生論的映画評論/「殺人の追憶('03) ボン・ジュノ  <追い詰めゆく者が追い詰められて――状況心理の差異が炙り出したもの>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/2003.html