「息子のまなざし('02) ダルデンヌ兄弟 <男の哀切な表情を凝視して―― 或いは、くすんだ天井の広がり>

 関係の劇的な転化によって、二人は追う者と追われる者の関係を開いていく。そして追う者は追われる者を捕捉し、その首を絞めにかかる。

 しかしより腕力に勝る男の圧力は、その男の自我の臨界辺りで決定的に中断された。

 少年の首を絞める男の脳裏に、その少年によって喉を掴まれて絶命した愛児の悲痛が刻まれたのかも知れない。

 少年の犯した愚をなぞる蛮行を走り抜けるほど、男は攻撃的ではなかったのだ。既に無抵抗な少年の首を絞めるには、相当の飛躍を必要とする。狂気のサポートか、決して浄化されることのない憎悪を必要とするのだ。

 男にはそれがなかったのである。

 「もう、これで充分だ」と思ったのだろうか。

 圧力をかけていた男の表情には、嗚咽を必死で抑える哀切が炙り出されていた。

 映像はそれを映し出さなかったが、男の表情を見詰める少年の眼差しのうちに、男の悲痛が捉えられたのである。全ては、それで終ったのだ。

 男は少年から離れて、地面にへたり込む。

 そこでも、男は懸命に嗚咽を抑えていている。

 少年は男の横に座り込んで、男の感情の奥にある最も悲痛な世界と出会ってしまったのだ。このカットこそ、この映像が最大の勝負を賭けた描写であったと思われる。

 その直後、少年が男を追い駆けて、共同作業に加わる意志を示したのは、自分の上に覆い被さってくる重い身体から零れ出た、揺動する感情の悲哀を凝視したことで、相手の思いの一端にその心が初めて届いてしまったからである。
 
 少年はそこで、男に自分を殺す意志がないことを悟ったばかりか、男がそのような極限的な世界で煩悶する現実を垣間見てしまったのである。

 
(人生論的映画評論/「息子のまなざし('02) ダルデンヌ兄弟 <男の哀切な表情を凝視して―― 或いは、くすんだ天井の広がり>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/10/02.html