ミリオンダラー・ベイビー('04) クリント・イーストウッド  <孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画>

  安楽死を求めるマギーの気持ちが充分に理解できていても、それを遂行することに躊躇するフランキーは、思い余って、馴染みの神父に相談した。
  これまでにない真剣なフランキーの相談に対して、神父の反応はカトリックの倫理観を代弁するもの以外ではなかった。

  「手を貸してはダメだ」
  「分ってます。だが、彼女の頑固さをあなたは知らない。王座を狙えたのも、私の指導ではなく、彼女の努力だった。今、死にたがってるが、私は死なせたくない。でも、生かすのも残酷だ。これをどう解決すればいい」
  「解決など考えずに、全てを神に任せなさい」
  「彼女は私に助けを求めているんだ」
  「君は23年間、ほぼ毎日ミサに来ている。それは、何か罪を背負っているからだ。だが、その罪より、自殺を助ける方が大罪だ。手助けしたら、君はお終いだ。魂の闇に入り、永遠に自分を見失う」
  「もう見失っている」

 凄い会話である。

  しかし本作のこの描写は、観る者を「驚かせる映画」の得意な「アメリカ映画」のカテゴリーとは切れていた。

  登場人物の懊悩を構築的に繋いできた映像構成が、相当の説得力を持ち得ていたからである。

  そして、その瞬間を映像は描き切った。

  「魂の闇に入り、永遠に自分を見失う」覚悟を持って、フランキーは動いたのである。

  マギーの部屋に忍んだ男は、マギーに己が覚悟を告げた。

  「人工呼吸器を止めるぞ。意識がなくなる。そしたら薬を入れる。もう眼は覚めない」

  その後、男は自分の思いを間接的に伝えたのである。

  「モ・クシュラとは“君は私の全て”という意味だ」

  “君は私の全て”というメッセージの圧倒的重量感に、観る者は魂を鷲掴みにされるかも知れない。

  「驚かせる映画」の安直さを削っているからだ。

  笑みと涙で反応するマギー。

  そこに、もう言葉は不要だった。

  男は人工呼吸器で繋がれた女を確実に楽にするために、充分な量のアドレナリンを点滴に注入した。

  一切が終焉した瞬間だった。
 
 
(人生論的映画評論/「ミリオンダラー・ベイビー('04)  クリント・イーストウッド  <孤独な魂と魂が、その奥深い辺りで求め合う自我の睦みの映画>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/05/04.html