おくりびと(‘08) 滝田洋二郎  <差別の前線での紆余曲折 ――  「家族の復元力」という最高到達点>

 その自殺既遂者の遺体を前にして、大悟は今や、自立した納棺師の如く、心に充分の余裕を持って、「女性の化粧」を施していくのだ。

  自立した納棺師が、チェリストの延長としての芸術家であるという誇るべき時間を、妻との縁を切ってまで拘った男が、堂々と、且つ、息子を喪って呆然自失の相手の苦衷(くちゅう)に優しく寄り添いながら、荘厳なまでの静謐さの中で開いていく。

  その仕事の見事な表現力は、いつしか悶々としていた空気の澱みを払拭し、浄化し、その古式納棺の儀式に溶融するかのように、居並ぶ遺族の心を柔和なものに変えていったのである。

  仕事が万事終了し、社長と共に「忌中」の家屋を離れようとしたとき、一つの小さな奇跡が起こった。

  妻を亡くした男の行動がそうであったように、それは恐らく、古式納棺の仕事に携わる者だけが受け取る、もう一つの感情交換であったかも知れない。そう思わせる奇跡にも似た出来事が、このときもまた出来したのだ。

  留男の父親が二人の納棺師の傍に近寄って来て、自分の正直な思いを語ったのである。

  「留男がああなってから、いつも喧嘩ばっかりで、あいつの顔、まともに見たことありませんでした。だけど、微笑んでいる顔見て、思い出したんです。ハァー、おいの子だのうって…おなごの格好してたって、おいの子はおいの子だの…本当に有難うございました」

  ここで父親は、堪えていたものが噴き上がってきて、泣き崩れた。

  「おなごの格好してたって、おいの子はおいの子だの」

  我が子の顔をまともに見たことがなかった父親が、古式納棺の匠の世界の中で蘇生した息子の美しく、微笑んでいる顔を見たとき、「性差」によって縛られることがない心境に初めて到達し、「おいの子はおいの子」という認知に至ったのである。

  その画像は、まさに納棺師の仕事が、家族の復元の機能を持っていることを象徴するシーンでもあった。納棺師の最高到達点が、そこにあった。
 
 
(人生論的映画評論/「おくりびと(‘08)  滝田洋二郎  <差別の前線での紆余曲折 ――  「家族の復元力」という最高到達点>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2009/07/08.html