欲望('66) ミケランジェロ・アントニオーニ <関係の不毛という地平にまで絶望的な稜線を伸ばしてきて>

 本作への私の批評の主眼には、二つある。
 その一つ。

 本作においても描かれた、「現代人の絶望と孤独」という作り手の問題意識は、サスペンス性への彩りを添えた不条理劇という物語設定の中で、いよいよ深まるばかりの「愛の不毛」という主題が、ここでは「関係の不毛」という地平にまで、その絶望的な稜線を伸ばしてきたということ。

 そこではもう、殺人事件の報告すらも満足に伝えられず、一端、日常性の規範から逸脱してしまうと、もう共通言語のコードを構築することが困難になってしまうのである。

 二点目。

 それは、前述したように、主人公が関与した「廃棄」のシーンの多さ。

 私が最も気になった描写だ。

 ところで、この「廃棄」という由々しき問題については、続きがある。

 それは、主人公には廃棄できないものが存在したという厳然たる事実。

 記憶である。

 「殺人事件」についての記憶だけが、主人公の自我を搦(から)め捕ってしまったのである。
 
 搦め捕られた主人公の自我が、広々とした公園の一角で置き去りにされるラストシーンのインパクトは、オブジェは廃棄できても、日常性の規範から逸脱したと信じる、自己限定的な体感の文脈だけは廃棄できなかったということだろう。

 そして、私たちの自我が拠って立つ、三次元の日常世界から逸脱する虚実の曖昧な、自己限定的な体感の文脈への躙(にじ)り口は、幻想が踊る精神世界に搦め捕られたとき、日常性の規範からの逸脱に充分に対応し得ない、私たちの普通のサイズの自我のブラックアウトを露わにしてしまうということなのだ。

 但し、この仮説については、作り手の問題意識の範疇には内包されていないだろう。

 ミケランジェロ・アントニオーニ監督が本作で提起したかった点は、高度に分業化して発展した産業社会が生んだ歪みであり、それが表在化した様態が「関係の不毛」という把握であるに違いない。

 更に言えば、アントニオーニ監督は本作を発表することで、もう、その先の表現世界の稜線すらも見えない地平にまで昇り詰めてしまったように思えるのだ。

 多くの「物」が、高度に発展した産業社会が生んだ文化的産物であるかのように把握する作り手の表現世界に対して、私は「60年代限定の映画作家」という風に把握しているが、それは、21世紀の現在の地平からようやく相対化できた視野が齎(もたら)したもの。

 大衆文化の澎湃(ほうはい)した時代下にあって、「進歩的知識人」の多くが「資本主義という妖怪」を厭悪(えんお)し、未知なる「革命ロマン」の物語にそれぞれの思いを繋ぎ止めていたことが想起される、あの「狂騒の時代」である。

 本作もまた、切っ先鋭い時代の先端の臭気を嗅ぐ、映像作家の感性の高さが分娩したものと言える。
 
 
(人生論的映画評論/「欲望('66) ミケランジェロ・アントニオーニ  <関係の不毛という地平にまで絶望的な稜線を伸ばしてきて>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/04/66.html