叫びとささやき('72) イングマール・ベルイマン <「感情吸収」による「和解」の文脈のリアリズム>

  映像の中で、最も重要なシーンの中の一つに、死去したはずのアグネスが葬儀を前にして蘇生するという描写があった。

  この描写は、紛れもなく、「イエスの復活」をなぞったものだ。

  「私は死んだわ。なのに眠れない。皆が心配で。くたびれた。誰か、助けて」
 
 アグネスの「復活」に震撼する姉妹が、「死者」に呼び出されたのだ。

 そのとき、長女のカーリンの自己防衛的反応は、過剰なまでに攻撃的だった。

  「頼みは聞けない。あなたの死に関わりたくない。愛していれば別だけど、私は愛していないから。このまま大人しく死んでいてちょうだい」

 次に呼ばれたのは、三女のマリーア。

 姉のように毅然と拒絶できない彼女は、例によって偽善のポーズを崩さなかった。

  「見捨てておけない。小さい頃、夕暮れによく遊んだわね。急に闇が怖くなって、しっかり抱き合ったわ。今もあの時と同じ」

  しかし、「死者」のアグネスに「近づいて」と言われて、抱き締められたマリーアは、恐怖のあまり絶叫するや、部屋を飛び出て行ったのである。

 聖書では、磔刑に処せられたイエスを裏切った弟子たちが、「復活」によって初めて真の信仰を得るという有名な挿話があるが、しかし映像では、「復活」したアグネスに呼び出された姉妹共に、肉親である彼女を拒絶してしまうのだ。

 壮絶な疼痛による「叫び」を残して昇天したアグネスは、姉妹の本音を知って嗚咽するばかり。

  「あたしに任せてください・・・一緒にいるわ」

 ここでも、アグネスを受容したのはアンナだった。

 詰まるところ、私たちにはアンナの如き聖女性を求める幻想が根強いだろうが、しかし人間のエゴイズムや恐怖感情の突沸の様態が晒される状況下での、姉妹のとった反応の中にこそ人間の根源的な有りようが存在することを認知し、窮屈なモラルの視座に呪縛されないその現実を、きっちりと受容しなければならないという把握もまた簡単に捨てられないのだ。

  それが人間だからだ。

  あまりに無防備な観念の氾濫の延長上に、「復活幻想」に流れゆく私たち人間の怖さ、自我の脆弱さへの認知も捨ててはならないのである。

  「復活」を受容するそのアンナにしても、3歳で死亡した愛児の記憶に苛まれ、祈りを捧げる日々を重ねてきているのだ。

  彼女のこの思いが、アグネスへの深い憐憫の感情を支え切っているとも言えるだろう。

  経験の重量感が、それを内側に抱える者の信仰をより強化するのである。
 
 
(人生論的映画評論/「叫びとささやき('72) イングマール・ベルイマン  <「感情吸収」による「和解」の文脈のリアリズム>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/02/72.html