羅生門('50) 黒澤 明 <杣売の愁嘆場とその乗り越え、或いは「弱さの中のエゴイズム」>

  この映像は、杣売である一人の中年男の心理分析が中枢となる物語であると、私は考えている。この映画の作品的価値も、映像の作り手の主題性も含めて、本作は杣売の心情分析なしには成立しない人間ドラマであると言っていい。

  全て杣売の疑問から始まり、杣売の愁嘆場を経て、そこを乗り越えていくこの男の笑顔によって括られていくのである。

  映像の中でこの男が語ったことの全てが、この映像を支配する力を持っているのだ。

  原作にはないこの男のキャラクターの導入こそが、映像の曲線的な流れの内に、それが内包する人間性の本質に関わる問題提起を、含みの多い文体によって突きつけてくるような気迫ある映像を作り出してしまったのである。

  ラストシーンが余分であるという意見が多いが、それは私から言わせると、本作を誤読しているか、或いは、黒澤映画の声高の主張に馴染まない人々の嘆息であるかのいずれかである。私もまた、どちらかと言えば後者の立場に近いが、しかし本作に限って言えば、この映像はラストシーンの劇的な展開抜きには成立しない作品なのである。

  それは単に黒澤映画であるという理由ではなく、この物語の構成と、それが辿り着くラインの括りとして、そのような描写なくして済まないからだ。ラストシーンにこそ、映像の重量感をその根柢に於いて支える描写である、と考えるからである。

  結論から言うと、最後に用意された杣売の証言を事実と見ない限り、この映像は成立しないし、ましてや、黒澤映画のその固有の映像展開が破綻してしまうのである。従って本稿は、そのことを前提にして言及していくことになる。

  映像の導入は、杣売の「わしにはさっぱり分らねぇ」という、如何にも物語的な語りによって開かれた。

  しかし、この映像を最後まで観た者の素朴な疑問を記せば、この男の「分らなさ」とは一体何か、という思いが沸々と湧き上がってきて、結局、私のように現在に至るまで悩まされる者もいるかも知れない。

  あるシネフィルらしき匿名の御仁は、この男の「分らなさ」を、真実を覆い隠すためのカモフラージュであると説明していたが、私はそのような考えにとても同意できない。なぜならこの男は、冒頭の羅生門でのシーンで、わざわざ性根が悪そうな下人に、自らの「分らなさ」をダイレクトにぶつけているからである。

  この男が事件の真実から逃避したい気持ちがあれば、事件についての話題を自ら振っていく必要がないのだ。

  この男にとって、三日前の事件は、自分が訴えられるかも知れない恐れがある以上、事件の話題から遠ざかりたいと考えるのが普通である。そこが、旅法師の「分らなさ」との決定的違いである。

  なぜ、この男は、自分の「分らなさ」の解読を求めるような物言いを、事もあろうに、性根の悪そうな下人に向かって放ったのだろうか。
 
  以上の疑問の解読から、私の映像分析が始まらざるを得なかった次第である。
 
 
(人生論的映画評論/「羅生門('50) 黒澤 明   <杣売の愁嘆場とその乗り越え、或いは「弱さの中のエゴイズム」>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/11/50.html