桜桃の味('97)  アッバス・キアロスタミ  <「映画の嘘」による、小さく自己完結させるヒューマニズムへの拒絶>

  やがて朝が来た。

  バディの視界に入り込んでいた褐色の風景は、一転、グリーンの山肌に変わっていた。

  「もういいよ。聞こえるか?もう休んでもいいと、皆に伝えてくれ。撮影は終わったから」
  郷愁を誘うBGMに乗って、本作の作り手であるアッバス・キアロスタミ監督の張りのある声が画面を支配して、主人公のバディ役の俳優が大仕事を終えた緊張感から放たれた表情を垣間見せ、小心のクルド兵役を演じた素人俳優が邪気たっぷりにカメラに向かってポーズを取ったのである。 

  しかし、なぜここで、映像スタッフらの唐突な登場による演劇的な「異化効果」(注)を想起させる手法の導入という技巧の内に、映像それ自身を相対化させてしまったのか。

  ラストシーンの技巧の導入は、「映画の嘘」の中で物語を自己完結させず、「映画の嘘」それ自身を単に強調する効果しかないのではないか。

  最初、この映画を観たとき、私はそう思った。

  更にその後、丹念に観返してみて、私は多くの想念を得た。

  以下、それに言及したい。

  「異化効果」を狙った演劇的な技巧の導入の意味を考えた場合、キアロスタミ監督の中で、「自殺の是非論」を含めて、物語の結論はどうでもいいことだったのではないか。

  その文脈で言えば、キアロスタミ監督は、自殺を肯定も否定もしていないということになる。

  「自殺の是非論」に安直な結論を出すほど、自殺の問題は、人間の容易ならざる根源的な問題であると考えているように思われるのだ。

  なぜなら、映像スタッフが、あの時点で映像に侵入するという描写を挿入しなかったら、バディは恐らく、人生の終着点を求める男の長くて重い、その一日の最後を括るに際して、「『桜桃の味』の話で、自殺を思い止まった男」という安直な結論を導き出してしまうのである。

  キアロスタミ監督は、この描写を回避したかったに違いない。

  彼が言いたかったのは、単に、心の有りよう次第で風景はどのようにでも映ってしまうということであって、「緑の山」を「砂漠の山」と見てしまう「心の在り処」について語ったに過ぎなかったのだろう。

   キアロスタミ監督は、まさに日常性が溶けていく男の自我に、日常性の持つ柔らかで吸収力のある、人一人が生きていく分に足るだけの熱源供給力の凄味を確認させたかったのだ。

  自我に取り付いているものがほんの少し変わるだけで、自我が捕捉する風景が変わり、何気ないが、それなしに生きられない日常性が復元するとき、人は初めて退屈だが、日常性の持つ安定感を知るに違いない。

   そのことを強調するためには、このような「異化効果」の技巧による、映像それ自身の相対化を狙ったのではないか。

  それ故、真逆の視座で本作を見れば、一貫してバディの自殺の理由を明かさない映像が象徴するように、本作は、観る者に特段の感情移入を回避するように作られていて、恐らく、「映画の嘘」で小さくまとめるヒューマニズムの内に、物語を安直に自己完結させたくなかったという風に把握することも可能なのである。

  そう考える以外にない、あまりに意外なラストシーンの閉じ方だった。

  但し、本作について、このような深読みも可能であることを提示しておこう。

  即ち、キアロスタミ監督は、以下のように言いたかったのかも知れないのだ。

   「緑の山」の風景もまた、その見栄えの美しさを切に求める者たちの「異化」的な心理現象であって、その内実は 「砂漠の山」としてのイランのジグザグ道を正視することから回避しようとする、人の心の欺瞞性に対しても逆照射したかったとも考えられるのである。

   私たちは、「緑の山」の幻想にも騙されてはいけないという含意が、そのメッセージの内に含まれているとも言えないか。

 
(人生論的映画評論/「桜桃の味('97)  アッバス・キアロスタミ  <「映画の嘘」による、小さく自己完結させるヒューマニズムへの拒絶>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/02/97.html