太陽に灼かれて('94) ニキータ・ミハルコフ <「風景の変容」 ―― 3部構成によって成る特徴的な映像構成の劇的効果>

  スターリン粛清の恐怖をここまで映像化した本作の決定力に、慄然とするばかりだ。
 
  次にミーチャのケース。
  彼が単に、10年前のリベンジをモチーフにして、「芸術村」を訪問したのでないことは明瞭である。

  マルシャとの再会は、大いなる希望であったかも知れないが、しかし彼は二人だけの対話の場を急拵えし、そこで一方的に語り尽くしたことで、或る程度浄化されたように思われる。

  それで充分だったとは思えないが、彼には残り時間が限られていたのだ。

  その残り時間の中での、コトフとの直接対決。

  彼を自殺させないように監視し、完璧に捕捉すること。

   「史上初のプロレタリアート主導国家」の特殊世界において、貴族階級出身のミーチャは、秘密警察の上司から、彼のこの「致命的弱み」に付け込まれた、「革命英雄」の捕捉劇を担わされたのだ。

  寧ろ、彼こそ最大の被害者であったと言えるだろう。

  政敵を倒した秘密諜報員は、その功によって階級を上り詰めた結果、自らの権力欲を推進力にして、権力機関の中枢を一気に掌握していく。

  そこまで上り詰めた男は、無論、本人の人格障害的挙動も大きく媒介しているものの(と言うより、権力機関の中枢にまで上り詰めていくと人格変容する面もある)、国家の最も重要な情報を握っているというメリットが、逆に彼を利用する最大権力者によって疑心暗鬼の対象人格と化し、一転し徹底的に監視され、そして何某かの理由を張り付けられ、抹殺されていくに至るのだ。

  これは、スターリン粛清の執行者として有名な人事の連鎖である、ヤーゴダ(初代NKVD=内務人民委員部=秘密警察)→ エジョフ→ ベリヤらの振舞いと、その末路(いずれも反逆罪等で処刑)に集中的に表れていた。

  しかし、貴族階級出身のミーチャの屈折→ 秘密諜報員への同化→ コトフの捕捉→ 自殺という曲折的流れ方は、なお彼の中に、深々と人間的感情が渦巻いていたことの証左であった事実を物語るものだったであろう。

  そのことの典型的な事例として、最も印象深い描写があった。

  それはコトフを捕捉した車内で、騒いだ彼を諜報員たちが顔が変形するまで暴行するシーンである。

  それに耐えられず車外に出たミーチャが、再び戻って車が走り始めたとき、後ろ手に手錠を掛けられ、瞼が腫れ上がって眼が開けられない状態のコトフに睨みつけられたのだ。

  ミーチャは、必死に心の動揺をに見透かされないようにして、車外に顔を向け口笛を吹く。

  コトフを正視できないのだ。

  自らが逮捕し、処刑台に連れていくであろう、かつての恋人の夫が放つ糾弾の視線を受容できない男が、10年以上も長きに渡って秘密諜報員の仕事を担わされてきたのである。

  しかしコトフ逮捕によって、彼の心は、もうその「仕事」を継続できない脆弱さを露呈してしまうのだ。

  彼の自殺は、コトフ自身への個人的感情以上に、その家族の表情から微笑みを奪い取った罪責感に苛まれた感情が揺動していると見るべきであろう。

  彼はヤーゴダ→ エジョフ→ ベリヤが辿った、「大粛清の旗振り人」という役割を担う程には冷血漢になれなかったのだ。

  このような超一級の人間ドラマを、ニキータ・ミハルコフは映像構築したのである。

  脱帽と言うしかない。
 
(人生論的映画評論/「太陽に灼かれて('94) ニキータ・ミハルコフ   <「風景の変容」 ―― 3部構成によって成る特徴的な映像構成の劇的効果>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/07/94.html