晩菊('54) 成瀬巳喜男 <それでも女は生きていく>

 きんのようにほぼ確信的に覚悟を括って男を断ち、その才覚と現実感覚によって、まもなくやって来るであろう、高度成長の時代と上手に繋がっていく可能性をふんだんに持つ、頼もしい自立心があれば何の問題もないが、それでも彼女の中で、「金」だけで人生の至福に逢着する未来像が確保されているかどうかについては不分明である。彼女もまた、中年女性に残された孤独な時間との折り合いが、常に見えない部分で切実なテーマになっていくに違いないのだ。

  きんの比較的安定的な人生軌道と対極にある、たまえとみ

  依存性の強い彼女たちに再婚し、家庭的生活をリスタートする可能性はないとは言えないが、少なくとも、とみのような杜撰で刹那的な性格の持ち主が、幸福な晩年を送れる確率は高いと言えないだろう。

  才覚もなく、手に職を持たない彼女たちは、実子に見放されてしまったら、何か堅気のパートのような仕事で、相変わらず生活を繋いでいくしかないのであろうか。

  自分たちの思いをある程度汲み取って、依存するに足る何者かと繋がれなかったとき、二人の余生は、決して希望に満ちた軌道を作り上げていくのは困難であるような気がするのだ。
 
  この映像は、かくも厳しいテーマを内包していて、あまりに切実である。

  そんな切実なテーマを深刻ぶって描くことなく、どこまでも成瀬らしく淡々と、市井の其処彼処に垣間見える人生模様を、丸ごとそのまま切り取ったような自然さで括り切った秀作、それが「晩菊」だった。

  もう一度、私なりにその主題を要約すると、こういう文脈になるだろう。

  「亭主(男)を持たない中年女性がそのリスタートに於いて、その自我を安定させるに足る、拠って立つ何かを持ち得るか、或いは、いかにそれを継続的に保障し得るか、そのためにはどうあるべきか、どうすべきなのか」

  それでも人は生きていく。

  とりあえず、今死んだら困るから生きていく。死ぬに足るだけの理由がないから生きていく。時代の、眼に見えない移ろいの中で生きていく。

 それでも女は生きていく。盛りを過ぎても生きていく。男なしでも生きていく。思うようにならない人生を生きていく。

  始まりがあって、終りがある。

  そこに取るに足らないことしか起こらなくても、円環的な日常性を巡って、巡って、巡り抜いて、それでもそこにしか辿り着かない時間の海を漂流するようにして、一時(いっとき)の心地良さと出会うために生きていく。

  人生は所詮、なるようにしかならないのだ。

  運命の悪戯もあれば、際どい分岐点もある。

  どれほど努めても、何ものにも結晶化できないこともある。何もしなくても、向こうから天使が誘(いざな)ってくれるときもある。

  一切は幻想かも知れないし、何事も不定形な観念の饒舌なる遊戯かもしれないのだ。

 それが偶然だったか、それとも必然だったか、実は誰も定められないし、そこに残された固有の思いだけが、その軌道の評価を括っていくだけなのである。

 それでも人は生きていく。

 それだからこそ、人は生きていく。定まっているようで、定まらない人生の悪戯を信じることができるから生きていく。
 
 くどいようだが、なお書いていく。

 モンローウォークの向こうに何があるか分らないけど、それでも彼女たちは生きていくのだ。

  「晩菊」とは、遅咲きの菊のことである。

  このタイトルと映像の内実の落差に失笑を禁じ得ないが、モンローウォークで括った映像の、ほんの一歩突き抜けた律動には、「思うようにならない人生」を生きていく女の哀切なる余情は微塵もない。それでも女は生きていくからである。
 
 
(人生論的映画評論/「晩菊('54) 成瀬巳喜男 <それでも女は生きていく>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/11/54_11.html