奇跡の人('62) アーサー・ペン <様々な現実が交叉し、複層化した様々な条件が、限定空間で集中的に表現されたとき>

  ヘレンへの「教育」の困難さは、イメージ喚起能力の形成が、ヘレンの幼時的自我を脱却させる唯一の方法論であるにも関わらず、それを容易に持ち得ないことにあった。

  「物」には言葉があり、それぞれ意味を表している。

  そのことの理解なしに、イメージ喚起能力の形成は起こり得ない。

  ヘレンの乱暴の本質は、彼女の脳が正常でありながら、「三重苦」によってイメージ喚起能力を持ち得ず、そのため人格相互間で、コミュニケーションが成立しない感情的苛立ちであり、それは自分の思いや欲求を相手に伝えられないストレスでもあった。

  それは同時に、相手の訳の分らない振舞いの意味が把握できない不満であったと言える。

  言うまでもなく、「共通言語」なしに、コミュニケーションは成立しないのだ。

  暗中模索のアン(愛称アニー)・サリバンは、そのために、指話による言葉の獲得を目指した。

  点字よりも指文字の方が効果的であるというアニーの信念は、ゲーム感覚の快感を随伴する経験則だった。

  その経験則によって、「DOLL(人形)」という字を、アニー・サリバンはヘレンの手の平に書いたが、それが自分の抱いている「物」の名前であることを知るに至ったことは、ヘレンの聡明さの証明であると言えるだろう。

  ヘレンに固有の、この知的条件は重要である。

  なぜなら、程なくヘレンは、全ての「物」に名前が存在することを理解するようになったからだ。

  だが、それは強制的なものだった。

  然るに、アニーの最大の「敵」は、ヘレンをスポイルするだけの「教育」を常態化してきた、少女の両親だった。

  だから、両親との衝突は不可避だったのだ。

  食卓の場で、ヘレンが自分の好きなものだけを手を突っ込んで食べても注意しない両親を無視して、アニーはヘレンの振舞いを殆ど暴力的に押さえ付けた。

  アニーは、両親に向かって叫んだ。

  「躾の悪い山猿です!暴君に家中が支配されているんです!甘やかすのは哀れみの履き違えです!教えるよりも、同情する方が楽ですものね!」

  「じゃ、何を教えた!」とヘレンの父親。

  「今から教えます。皆、出て行って下さい!」

  「雇われ人の分際で失礼だぞ!」と父。

  「6年間も、同情しか知らなかった子が哀れです!」
 
  部屋に鍵を掛けて、ヘレンに対するアニーの強制的な教育が開かれた。

  殆ど、格闘技の世界が展開されたのである。

  部屋の中で暴れるヘレンと、それを暴力的に支配するアニーの「教育」の構造は、基本的には「権力関係」の形成を具現させるものだったが、しかし、それ以外に方法がないと確信する20才の半盲の教師の、覚悟を決めた教育実践だったと言えるだろう。

  この一連の行為は、20才の若さ故の暴走と受け取られても仕方ないが、それは、このような突破力なしに成就し得ない教育実践の艱難(かんなん)さを示すものであった。

  まもなく、へとへとになって、格闘技の世界が展開された部屋から、アニーが出て来た。

  同時にへとへとになったヘレンを、母親はこれまでもそうしてきたように、限りなく熱く、深く抱擁した。

  母親のこの対応は、強(あなが)ち誤ってはいないだろう。

  問題は、父親もまた、娘を存分にスポイルしてきたことである。

  そのため、「甘えるだけの幼時的自我」を、ヘレンは延長させてしまったのである。

  良かれ悪しかれ、この親子の一方的な甘えと依存の関係を、アニーは断ち切る必要があった。

  そのための手段は、ヘレンを両親と離れた場所で教育することだった。

  そのために、アニーが選んだのは、森の中の小屋でのマンツーマン指導であった。

  閉鎖的空間でのこの指導は、「権力関係」の加速的形成を具現させる危うさを持っているが故に、教育の範疇を超えて、根柢から自壊しかねなかったのは事実。

  それでも、この類のマンツーマン指導以外の方法論が存在したか否か、難しいところである。

  私たちは、「児童の権利を重視する現代の教育の視座」によって、南北戦争後の秩序の空洞が延長されていた150年前のアメリカ南部の一地方での出来事の是非を、安直に判断し、「裁く者」のように指弾する行為に走ることを自戒する態度を決して捨てないことを、絶えず肝に銘じなければならないのだ。

 
(人生論的映画評論/「奇跡の人('62) アーサー・ペン   <様々な現実が交叉し、複層化した様々な条件が、限定空間で集中的に表現されたとき>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/07/62.html