突然炎のごとく('62) フランソワ・トリュフォー <「女王」が築いた「パーソナルスペース」の途方もない作り>

  これは、「距離」の映画である。

 当該社会の社会規範の様々な縛りから相当程度自由になって呼吸を繋ぐ、一人の女(「女王」=)がいる。

 その「女王」は、二人の男によって「発見」され、その絶大な価値を認知された。

  「その粗彫の女の顔の微笑が二人の心を捉えた。それは、アドリア海の野天美術館にあった。二人は感激して、黙って像の周りを廻った。翌日、語り合った。あんな微笑に会ったことはない。もし会えば、後を追うだろう。天啓を受けて戻って来た二人を、パリは優しく迎えた。フランス娘は彫像にそっくりだった。その鼻、口、顎、額で、彼女は幼時に祭礼の化身に選ばれた。夢のようだった」(ナレーション)

  まさに、「その鼻、口、顎、額で、彼女は幼時に祭礼の化身に選ばれた」フランス娘こそ、「女王」であるカトリーヌだった。

  全ては、そこから開かれたのである。

  そして映像は、その「女王」が築いた「パーソナルスペース」(他者の侵入を許容する心理的距離感)の途方もない作りについて映し出していく。

  「誰か私の背中を掻いてくれない?」などと言ってのける、その「女王」が築いた「パーソナルスペース」は、本来的な自我の防衛戦略の砦と言うより、極めて感覚的なラインなので、それでなくとも見えにくい「パーソナルスペース」の枠組みが、外部の者には空間認知のGPSが機能しにくいのだ。

  加えて、「女王」が築いた「パーソナルスペース」は、普通の自我のサイズを上回る広がりを持つから厄介なのだ。

  だから「女王」の芳しいフェロモンを嗅いで、その「パーソナルスペース」に吸収されるように踏み入っていく者たちが多く、その全ては老若を問わない異性、即ち、「女王」に特定的に選択された男たちである。

  「パーソナルスペース」が見えにくいのは、それが「女王」の感覚的な基準によって策定されたラインだからである。

  感覚的な基準もまた、「突然炎のごとく」という邦題のように、瞬時にして行動傾向が動いてしまう頼りなさを持っているから、まるでそれは、その粘液の支配力が不確かなほど特定しにくい「蜘蛛の巣」のようである。

  「女王」の「蜘蛛の巣」は、「女王」自身の一見刹那的な感覚包囲網となっているが、しかし「女王」の中では、どこまでも自在性を担保する絶対的で堅固な城塞である。

  然るに、「女王」の芳しいフェロモンを嗅いで、その「パーソナルスペース」に踏み入れていく男たちの規範感覚とズレた世界への侵入は、男たちの行動規範を根柢から揺さぶり、しばしば、「女王」と比べて相対的に脆弱な彼らの自我を混乱させ、中途半端な状況下に置き去りにしてしまうのだ。


(人生論的映画評論/「突然炎のごとく('62) フランソワ・トリュフォー <「女王」が築いた「パーソナルスペース」の途方もない作り>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/05/62.html