HANA-BI('98) 北野武 <自我が分裂した二つの〈生〉の究極の様態>

  本作の主人公は、〈死〉以外の選択肢を持ち得ない状況に自らを追い詰めて、それを遂行した。

  彼にとって、余命幾許もない妻との「死出の道行き」だけが、その曲線的な人生の到達点だった。

  映像では、「愛する妻との道行き」というプロットラインが敷かれていたが、恐らく、作り手が本作に投影した主人公の情感世界の中において、美幸の存在性は、「愛する妻」という形容よりも、自らの自我の拠って立つ安寧の基盤としての対象人格、即ち、「愛するもの」という把握の方が的を射ているように思われる。

  本作を通じて、彼の妻は一貫して、「女」という〈性〉のリアリティを身体表現していないのだ。

  「死出の道行き」の中で、彼女は常に野球帽を被り、ジャンパーを着て、ズボンを履いている。

  その振舞いは、「女」というよりも「子供」であり、或いは、「妹」であるような人格性を身体化していたのだ。

  要するに、彼女の存在は、主人公にとって「愛する何か」以外の何ものでもないということなのだろう。

  と言うより、本作の作り手は、映像から〈性〉のリアリティを脱色させたかったという把握の方が的を射ているのかも知れない。

  だから、それは妻との「死出の道行き」というよりも、既に寿命を持ち得ない、「愛するもの」との別れの儀式であり、それを喪うであろう主人公もまた、その〈愛〉の対象を完全に喪失したことによって、自死という究極の手段を選択せざるを得なかったということなのだ。

  本作のラストシーンで、主人公が、海岸で凧揚げする少女の凧の両翼を折ってしまった悪意の、その根柢にに横臥(おうが)する心象風景は、まさに主人公の妻を失語症に追い遣った、「愛児の死」という問題を炙り出す暗鬱な現実だったと言える。

  結局、妻の不幸の根源はそこにこそあり、その妻を喪うことになる男の悲哀もまた、その妻を通して我が子の死からリバウンドされてくる、痛烈な記憶の束に押し潰されていたということである。

  何より、それこそが決定的に重要な心理的文脈であるだろう。

  加えて、男が事件で冒した不手際によって、二人の刑事の不幸を惹起させた現実の重量感が、精神を圧迫するような贖罪意識となって、男の「死出の道行き」を決定付けるに至ったのである。

  「愛するもの」の喪失が予約された男にとって、「死出の道行き」以外の自己完結という方法論は存在しなかったのだ。

  しかし作り手は、このような男の死に方の対極に、絵画によってのみ辛うじて〈生〉を繋ぐ男の人生を描き出すことで、作り手自身の自我を分裂させていった。

  車椅子生活を余儀なくされたの男の人生がどれほど艱難(かんなん)を極めようと、この男は「死出の道行き」に旅立った男のように、簡単に自死を選択してはならないのだ。

  彼は睡眠薬自殺を図ったが、作り手はこの男を生き残らせたのである。

  なぜなら、この男は、作り手の「もう一つの分身」であるからだ。

  北野作品の中で画期点とも言える、このような「もう一つの分身」を作り出すことによって、どれほど厳しくとも、与えられた命を全うせねばならない運命を委ねられた男を作り出したという一点において、彼の表現への意志が、〈生〉に向かう未知のゾーンに踏み入る映像世界を切り開いていったのである。

  恐らく、この展開の広がりは、北野武という極めて個性的、且つ独創的な映像作家の中において、重大な意味を持つに至るだろう。

  即ち、「HANA-BI」以前と、それ以後の作品というように、彼の映像世界の展開の広がりが予約されたという意味において。

(人生論的映画評論/「HANA-BI('98)  北野武  <自我が分裂した二つの〈生〉の究極の様態>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/01/hana-bi98.html