時計じかけのオレンジ('71) スタンリー・キューブリック <「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への痛烈な糾弾の一篇>

  釈放の翌日、自由の身になったアレックスは、「治験前」の彼の思惑とは違って、自分の居場所を失う惨めさだけを曝け出していく。

  帰宅後、自宅のソファーで寛ぐ居候の青年を殴ろうとして、吐き気を覚えるアレックスがそこにいた。

  それは、ルドビコ心理療法による、「治験後」の「廃人同様となった人間」のあられもない「脆弱性」の露呈の現実であった。

  以上の把握に立脚すれば、「治験後」の映像で繰り返し描かれる、アレックスの嘔吐シーンは極めて重要な描写なので、解説を加えていこう。

  何より「第九」を聴いて、アレックスが吐き気を催すのは、「第九」によって駆り立てられた攻撃的、且つ性衝動が、所謂、動物の「真空行動」を例に挙げるまでもなく、言わば「本能行動」として発動していく一連のプロセスが、人格内部で構造的に妨害されている現実を示している。

  ここで言う、動物の「真空行動」とは、反射を作動させる「解発」(様々な因子によって行動が誘発されること)によって惹起する「生得的解発機構」が、刺激されたままの状態で置かれると、必ず同様の行動を発現させるということ。

  例えば、馬を厩舎に閉じ込めた状態で、「移動中枢」を刺激すると、その馬は必ず暴れ出してしまうということであって、私たちはこれを「本能行動」と呼んでいる。

  無論、人間には「真空行動」は存在しない。

  「本能的行動」は部分的に残っているが(「睡眠欲」、「食欲」など、「生存」に関わる欲望に限定)、しかしそれは、必ず同様の行動を発現させる「真空行動」とは切れている行動様態である。

  即ち、本作における「アレックスの吐き気」という条件反射的な行為を考えた場合、「生得的解発機構」が刺激されたままの状態で置かれた場合での、「真空行動」的発動の如き様態を示すのは、人格内部で構造的に妨害させている、危うい人体実験により強制的に作られた、「洗脳的自我」の支配力に因っていると言えるだろう。

  然るに「洗脳的自我」は、単に表層的な行動規範として作られたものなので、アレックスの人格総体を統括するほどの圧倒的支配力を持ち得ていないのだ。

  人格総体を統括できない中空の状態下にあって、「洗脳的自我」によってのみアレックスの振舞いが身体化されるという構造性の中で、それでも完璧に支配し切れないで残された彼の内側の攻撃的・性的衝動が、「洗脳的自我」の支配力の内に、その発現を強引に封殺されてしまっているのである。

  アレックスは、この決定的な自我分裂によって、最も安易な選択肢である自殺という手段に流れ込んでいった。
  しかし、アレックスを人体実験した内務大臣の「人格復元療法」によって、彼がより凶悪な悪へと変貌していくという映画のオチには、まさに人間の行動選択の自由を完全に奪い取る、極端な加工的、且つ、人為的行為を指弾する作り手の確信的メッセージが内包されていて、そこにこそ映像の基幹的主題を明瞭に読み取ることが可能となるだろう。
  この映画は、「暴力の肯定・否定の是非」という「倫理的次元」における問題提起でも何でもなく、前術した会話に象徴される政治的行為への痛烈な風刺であると読解できるのである。

  但し、映像から読み解く作り手の思考の内に、「暴力」を人間の本源的問題と考える文脈が伝わって来るのも事実。

  しかし有史以来、人間の「暴力」が消失した時代が存在しないという事実は、それが人間の「本能行動」であることを決して意味せず、ここでは単に、人間が「最も攻撃的で暴力的な存在体」であるという事実の認知に収斂される何かである、と読み解くべきだろう。

  反射を作動させる解発によって惹起する「生得的解発機構」と呼ばれる、「本能行動」という最大の能力を持つ他の動物と異なって、著しくその能力を欠く人間の場合、恐らく、前頭前野に中枢を持つと思われる自我によって、一切の生物学的、社会的行動の代行をしているので、それが人間の生存・適応戦略の羅針盤になっているに違いない。

  問題なのは、その自我が「先行する世代」の教育によってのみ、その基本形が形成されるという由々しき現実である。

  従って、その自我の形成は「先行する世代」の教育によって為される基本的営為でありながらも、どこまでも「自我の確立」に関わる自己運動は、人格主体の選択的行為によって達成されるべきものであるということ、それに尽きるだろう。

  それは、「選ぶ能力!」と叫んだ牧師の指摘に収斂される文脈である。

  本作は、「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への、些かコメディ風の味付けを被せた痛烈な糾弾の一篇であるということだ。

  その指摘は基本的に間違っていないが、但し、私たち人間が本能の代わりに、常に未形成の鎧を纏(まと)う宿命を負う、何とも頼りない「自我」によって行動せざるを得ない本質的な「脆弱性」を持っているということ。

  その認知こそ重要なのだ。

(人生論的映画評論/「時計じかけのオレンジ('71) スタンリー・キューブリック  <「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への痛烈な糾弾の一篇>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/05/71.html