十二人の怒れる男('57) シドニー・ルメット <「特定化された非日常の空間」として形成された【状況性】>

   評決についての詳細は言及しなかったが、次に、本作の中で私が最後まで気になった問題点について触れておきたい。

  それは、「1vs.11」の対立関係が、紆余曲折を経て、「11vs.1」になり、最後に、「12vs.0」になるというドラマの流れがあまりに出来過ぎていて、心理学的文脈においてどうしても納得できないところであった。

  どう考えても、一人の陪審員の説得によって、他の全ての陪審員の意見を反古にさせるという<状況性>を構築するのは、心理学的に見れば、相当程度、困難であると言わざるを得ないのである。

  なぜなら、有罪を確信する11人が形成した暗黙の空気が状況を制するとき、既にそこには、無形の心理圧を有するルールの如き縛りが形成されているからだ。

  最初から確信的な根拠を持てない陪審員第8番が、そこに彼をサポートするフォローが介在されたにしても(逸早く、彼の側に付いた老人陪審員の「メガネ」の一件等)、被告の有罪を信じる11人を相手に、凶器となったナイフの問題(注)に象徴されるように、被告を有罪にすることへの疑義を提示し、しかも検察側の不充分な立証責任の遂行を覆していくという離れ業を演じるのである。

  その際、有罪を信じる11人の中から、陪審員第8番の合理的な説明に納得して、「1vs.11」の対立構図が「2vs.10」、「3vs.9」、「4vs.8」、「6vs.6」、「9vs.3」、「10vs.2」、「1vs.11」になるといった風に、評決のプロセスで対立の構図に劇的な変容が見られるが、そのことは、「関係の相対性」を形成する<状況性>に心理的な要因が大きく関与していることを意味するだろう。

  その「関係の相対性」が、陪審員第8番の提議に影響を受けることで、彼にとって、有利な<状況>に推移していく流れが定着するという予定調和を約束するプロットラインの骨格が、本作を根柢において支えているが、どこまでも陪審員第8番の有利性を前提にしているという点を斟酌する限り、無形の心理圧を逆転させるという「関係の相対性」の劇的な変容を具現する説得力には、相当程度、無理があったと言わざるを得ないのである。

  要するに、本作が、その人格性を評議の中で少しずつ露わにする陪審員の行動変化を介して、個々の「人生」の一端を描き出すことが狙いであったという観点から考えれば、「1vs.11」の対立の構図を前提化した関係性を起点にする、ある種の予定調和の物語の設定が容易に導き出されてきてしまうのだ。

  本作のラストシーンで、陪審員第3番が、一貫して事件の被告を電気椅子に送る意志を変えなかったのは、自分の家庭事情とのネガティブな脈絡が潜んでいた事実に起因しているという、見え見えのプロット設定が露わになって、どうしても、その辺りに映像構築を上手にまとめ過ぎたスキルの過剰性が感受されてしまったのである。

  主観的には、このような巧妙なプロット設定なしにドラマを終焉させていく方が、よりリアルに感じ取れたのではないかとも思えるのだ。

  いつの時代でも、どこの社会でも例外ではないが、偏見の濃度の深い人間がそこにいて、それが、このような<状況>の中で単純に暴露されるという作り方で充分だったように思われるのである。

 この一級の社会派ドラマは、陪審員第8番に真っ向から対峙した、「悪役キャラ」としての陪審員第3番の家庭の事情まで挿入させることによって、この映画が事件を評決するサスペンス映画ではなく、その評決に携わった陪審員の人生観や人間性、更に偏見の奥にある家庭の事情まで描き切ることで成就した作品であったとも言えるが、それにしても、これほど見事にドラマをまとめる必要があったかどうか、最後まで疑問が残るところであった。

 結局、この映画は、ハリウッド好みのスーパーマン映画ではなかったのかということだ。

  陪審員第8番が提示した疑義が、悉(ことごと)く真実性を帯びていくというプロット展開は、<状況>が終始、この陪審員第8番の支配下に置かれていることを確認するとき、物語のお膳立てが決まり過ぎていなかったのかと言わざるを得ないのである。

 
(人生論的映画評論/「十二人の怒れる男('57)  シドニー・ルメット <「特定化された非日常の空間」として形成された【状況性】>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2009/12/57.html