海と毒薬('86) 熊井啓 <脆弱なるもの、汝の名は「良心」なり>

  ここで、戸田が放つ言葉の意味は重要である。

 彼は、「人間の良心なんて、考えよう一つでどうにでも変わるもんや」と言ったのだ。恐らく、その通りなのである。ニーチェが挑発的に喝破したように、「良心」とは攻撃性が内に向かうときの観念の集合である。観念の内実が変われば、「良心」などという心地良き言葉に集合する意味もまた変わるのだ。

 戸田や勝呂を難詰するGHQの取調官や、橋本教授の奥さんである、あの偽善的なヒルダというドイツ人にとって、「良心」とはキリスト教の神を基準にした観念以外ではない。神という絶対観念に支えられた自我は、時には厳しい罰を受けるが、しかしその絶対観念に思考の全てを預けることで、間違いなく、彼らは「救い」を得るのである。
 
  そしてその「救い」があるが故に、19世紀に詐欺や暴力によって蓄財をなした結果、「泥棒男爵」という汚名を着せられた多くの実業家は、晩年その財を公共機関に寄贈したし、また「ゴッドファーザー」(フランシス・フォード・コッポラ監督)でも丹念に描かれていたが、マフィアは無慈悲な殺人の後、その度に神に祈ることによって自らの行為を浄化し得ると信じたようでもあった。とりわけ、罪のない子供を殺した後、神に祈ることで自らの行為の不条理を中和化する偽善性を描いたとも思われる、「処女の泉」(イングマール・ベルイマン監督)の世界の映像表現の決定力は出色だった。

  「罪の文化」で生きると誇る彼らにとって、「良心」とは、自らの悪徳を浄化してくれる格好の文化装置であるということなのである。

  まさに、「人間の良心なんて、考えよう一つでどうにでも変わる」のだ。

  「良心」に対する異なった定義を持つ者たちが、お互いにそれについて議論し合っても、そこにどのような了解の着地点が生まれるのだろうか。

  一方が他方を、「良心」の名に於いて裁くとき、それは観念の一方的な押し付けであって、「勝者」の傲慢以外の何ものでもないのだ。

  戸田はこの会話を通して、そのことを言いたかったのだろう。

   以上の会話の描写によって、既にこの映像のテーマは、「人間とは何か」という根源的な問題にまで踏み入れてしまったのである。

  恐らく、それは作り手の問題意識のフィールドの中で、より高いプライオリティを持つテーマとして据えられていなかったに違いない。然るに、そのような作り手の思惑を超えて、本作は人間に関わる根源的な問題についての省察を、それを観る者と共有するレベルにまで開いてしまったのである。

  映像の作り手もまた、徹底したリアリストである戸田を糾弾しようとする思いが稀薄のようであった。戸田の把握は、そこに少しニヒリズムが含まれているものの、当時の様々な分野に於ける権力者と、それに追随した多くの者たちの平均的な感情であり、平均的な発想であると言える。

  確かに戸田の犯した罪は深いが、しかし実質的に、その退路を断つようにして、彼をその蛮行に誘(いざな)った者たちの罪の深さは尋常ではないだろう。彼らは、軍部から自分たちが利用されたということを口実にして、学部長選挙を有利に進める実績作りのために、若き米兵たちの健康な体に、眩しいまでに鋭く光ったメスを入れたのである。

  「こんな時代、こんな医学部におったから、捕虜を解剖しただけや」

  この戸田の言葉は、選択の余地のない苛酷な状況に人が置かれたときの、その自我の信じ難き脆弱さを浮き彫りにしている。
 
  しかしどこまでも、作り手の視座は時代と制度への弾劾というテーマの内に捕捉されているから、戸田の人格表現に関わる描写については客観的、且つ、俯瞰的なアプローチに留まっていて、その守備範囲の中で、確信的表現者としてのスタンスを確保しているように思われるのである。
 確かに、時代と制度への糾弾という作り手の問題意識に対して、観る者は一定の「共感的理解」を示すだろうが、それ以上に極限状況に置かれたときの人間の心、なかんずく、「良心」と呼ばれるものの脆弱さを否が応にも感じとってしまうのである。

   従って本作は、どこまでも、「脆弱なるもの、汝の名は良心なり」という心理的文脈で把握し得る傑作であると言っていいだろう。

  なぜなら傑作とは、観る者に作品の内実に含まれた様々なテーマ性について、自らの人生の立脚点を問う問題提起を含めて、そこに何某かの思索を求めて止まない内的継続力を保証する、ある種の表現的営為を結ぶ何かであるとも言えるからである。

 
(人生論的映画評論/「海と毒薬('86) 熊井啓  <脆弱なるもの、汝の名は「良心」なり>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2008/11/86.html