裸の島('60) 新藤兼人 <耕して天に至る>

  水の失態に涙しなかった妻が、慟哭するシーンがある。

  小学生の長男が急病に倒れ、医者を呼ぶ間もなく天に召されてしまったのである。呆然と立ち竦む夫を前に、我が子を喪って絶望的に打ちひしがれる妻。映像を通して、長く保持されてきた名もなき家族の物語の秩序が、初めて破綻を見せる瞬間だ。

  夫の一撃を受容する日常性に裂け目が生まれでき、あってはならない非日常の恐怖が、家族という絶対的物語を崩しにきたのか。

  懸命に堪える妻がいて、それを見守るしかない夫がいた。

  長男が通っていた学校の同級生たちが乗った船が家族の島にやって来て、そして戻って行く。葬儀が終わったからである。帰って行く船をいつまでも見守る妻の、抜け殻のような身体は、耕地の高みの辺りで漂っていた。かつて経験したことがない非日常の襲来に、彼女の心は落ち着く場所を失って、そこで漂っている以外になかったのであろう。夫が近寄るが、漂流する妻をただ見守るしかないのだ。

  その日について、映像はそれ以上語らない。それは、束の間裂けた日常性が回復する時間を待つかの如き冷厳だが、しかし確信的な眼差しでもあった。

  翌朝早く、いつものように伝馬船が、穏やかな海に一筋の線を引いて、そして水を入れた四つの桶を乗せて家族の島に戻って来た。

  天秤棒を担ぐ妻がいて、夫がいる。

  彼らの日常性は破綻を見せることなく繋がっているようだった。二人が天秤棒を担いで耕地を上っていく姿はいつもと同じ。上り切ったところで二人は天秤棒を降ろし、芽吹いた生命に潤いを与える作業に入っていく。

  しかしその時すでに、妻の内部で日常性をギリギリに保持していたその自我が、臨界点を超えてしまっていた。彼女は突然桶の中の黄金の水を放り投げ、その水を待っていた作物をむしり始めたのだ。狂乱したかのような振舞いの後、妻は耕地に平伏(ひれふ)して慟哭する。語りのない映像が、そこだけは特段の意味を持つかのような、家族の裸形の音声を記録したのである。

  天にも届かんばかりの、妻の号泣。

  映像は私たちに、非日常の世界に囚われた一人の母親の悲しみだけを突き出して見せた。変化の少ない映像に、最も鮮烈な表現が炸裂したのである。妻の心を思いやる夫は、妻の有りっ丈の叫びを全身で受け止めているようだった。彼には今、妻の極限的情念の炸裂を受け止めることしかできないのだ。

  充分に叫び、充分に受容する。それで何かが完結する。
 
  平穏な日常性を崩しにかかった災いの内面的な処理はもう、時間に任せるしか術がない。夫はそう括っていたに違いないであろう。

  家族の糧である耕地に感情を埋めきったのか、黙々と作物に水をやる夫を横目で見て、妻は憑きものが落ちたかのように、静かに立ち上がった。彼女の為すべき仕事は一つしかない。夫の仕事は自分の仕事でもある。それは、孤島に張り付いて生きる家族の仕事でもあるのだ。


(人生論的映画評論/「裸の島('60) 新藤兼人   <耕して天に至る> 」より抜粋 http://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post_17.html