羊たちの沈黙('91) ジョナサン・デミ <「羊の鳴き声」を消し去る者の運命的自己投企―― 或いは、「超人格的な存在体」としての「絶対悪」>

  強盗殺人によって、愛する父を喪ったトラウマから解放されず、ひたすら、「非在の父を代替する父性モデル」を求め続けるクラリスにとって、父性を全否定し、ひたすら胎内回帰を求めて、多くの女性を殺害(「皮剥ぎ」のみが目的)し続けるバッファロー・ビルを逮捕することは、彼女の自我の深奥に封印されたトラウマを解決する格好の手段であった。

  なぜなら、多くの女性の命を救うことが、彼女にとって「子羊の死」を防ぐことになり、「羊の鳴き声」を消し去ることになるからだ。

  レクターは、彼女との会話の中で、既にその深層心理を分析し切っていて、その不快な問いに真っ向から眼を見据えて答えてくるクラリスに、一貫して強い共感感情を抱いていたと思われる。

  クラリスとレクターの接見の本質は、シリアルキラー逮捕のための情報交換という名目で、実は、天才的精神科医である男の興味を惹き付けるに足る、凛と振舞うFBI研修生への分析療法にあるが、その苛酷な時間を覚悟するかのように、レクターと毅然と対峙する彼女との精神的睦みであったと言えるだろう。

  クラリスは、レクターの鋭利な発問に誠実に反応していくことで、自らの封印された過去との対話を余儀なくされていった。

  同時に、犯人逮捕への強い熱意とリンクすることによって、その内的モチーフがより強化されていくという自己運動を必然化したのである。

  それを、全人格的に引き受けたクラリスの精神的強靭さこそが、最終的に犯人逮捕に繋がったと言っていい。

  ラストシーンにおける、レクターからの電話の内容に見られるように、同時にシリアルキラーでもある男が、なお一貫して、天才精神科医であり続けた本来的な職分を自己完結させる結びとなったのである。

  このように本作は、サスペンスドラマの中に心理学の要素を存分に導入させることで、おどろおどろしい物語展開の内に、闇の深淵を覗く深みを与える映像構築に成就したという把握に間違いはないだろう。

  では、映像を支配し切ったレクターとは、一体何だったのか。

  彼は紛れもなく「超人」であり、「絶対悪」であると言っていい。

  「絶対悪」である限り、彼は「人の住む世界」で普通に呼吸を繋ぐ、「人格的或る者」とは縁遠い何者かである。

  文明で量産される基幹的情報を蓄える広範囲な教養と、人の心の芯を推し量る卓越した能力を持つその類稀な才分は、充分に「超人格的な存在体」である。

  その象徴は、彼が精神病棟の地下牢で、クラリスに下品な言葉を投げかけた囚人を、心理学の知識(叫び続ける行為の暴力性によって恐怖心理を張り付けていく)のみで殺害するエピソードに象徴的に表れているだろう。

  彼の存在によって、クラリスバッファロー・ビルも、「相対善」であり「相対悪」でしかない「人格的或る者」である、

  彼以外の全ての人間たちの職業上の営為や、その犯罪者の身の毛がよだつ凶行さえも異化されてしまうのである。

  即ち、「超人格的な存在体」である彼は、私たちが「世界」と呼んでいる一切の事象を異化させてしまう「絶対悪」なのだ。

  その「絶対悪」によって逆照射される、「世界」の事象の愚かさが鮮明に浮き上がってくるのである。

  そのような異界の「超人格的な存在体」として、「ハンニバル・ザ・カニバル」(人喰いハニバル=原作での命名)としての「ハンニバル・レクター博士」は造形され、永遠に生き続けていくという訳だ。

(人生論的映画評論/「羊たちの沈黙('91) ジョナサン・デミ   <「羊の鳴き声」を消し去る者の運命的自己投企―― 或いは、「超人格的な存在体」としての「絶対悪」>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/03/91.html