日の名残り('93) ジェームス・アイボリー <執事道に一生を捧げる思いの深さ――― 「プロセスの快楽」の至福>

  そんな男の、あまりに地味だと称される人生についての小さな物語を、もう一度簡単にフォローしていこう。

  舞台はイギリス 。
  時は、ヒトラー政権が暴走しつつあった1930年代。

  親の代から執事の仕事を勤める主人公スティーブンスは、親ナチ的だが善良な英国貴族に仕えていた。彼はそこで新たに女中頭として採用された、些か勝気なケントンと出会ったのである。

  彼女は、副執事として働くスティーブンスの父親の仕事上のミスを指摘し、父親を尊敬するスティーブンスの反感を買う。まもなく、父親の仕事振りがケントンの指摘通りであることを知ったスティーブンスは、冷酷にも、父親に対して雑役婦のような仕事しか与えなかったのである。

  屋敷で開かれた政治絡みの盛大な晩餐会の当日、父親が脳出血で急逝したときも、息子の執事は仕事を優先した。新たに採用された二人のユダヤ人娘を、主人の命令で執事が解雇したときも、ケントンはその非情さを責め立てたのである。

  ケントンのスティーブンスへの感情の変化が表出してくるのは、ユダヤ人娘の解雇について彼が心を痛めていたことを知ってからである。
 
  「なぜ、本当の気持ちを隠そうとなさるの?」

  ケントンは、感情を表に露出しない一流の執事の内面に触れたような気がした。女は男に近づいていく。それでも感情を見せない男に苛立ち、自分が求婚されていて、そのため、近く仕事を辞めなければならないことを告げた。このときケントンは、最後の賭けに出たのだ。

  しかし、男から返ってきた言葉は、「おめでとう」という素っ気ない一言。女はその切なさに啜り声を上げて泣くだけだった。それに気づいた男は、女の部屋にそっと忍び込む。女は当然それに気づいて、男からの反応を待つ。それでも男には、末梢的な仕事の用事しか伝えられないのだ。女にはもう去っていくしか術がなかったのである。

  二十年後、ケントンからの便りを受けて、老執事スティーブンスは再会の旅に打って出た。彼女をスタッフに向かい入れるための、意を決した旅である。

  ケントンもまた、再会を楽しみにしていた。そして儀礼的な再会。

  しかしケントンの娘が孫を出産したことで事情が変わり、スティーブンスのスタッフに加われなくなったことを、女は告げた。

  男は、女との永遠の別れを覚悟したのである。

  日が沈んだ雨のバス停で、二人は言葉少なく別れていく。バスの乗客となった女の眼から涙が溢れていた。 男はいつもと同じ表情で、女を見送るだけだった。
 ただそれだけの話である。

  余計なものが多少入っているが、この作品は執事道を貫徹したために、愛する者にその思いを最後まで打ち明けることができなかった男の、その職人的生き様を描いた映画である。

  「私が考えるに、執事が真に満足できるのは雇い主に全てを捧げて仕えられたときだ」

  ここに、男の人生の全てがあった。

  彼の至福は、執事道とも言うべき職責を全うしたときにのみ得られるのだ。

  執事道とは、特定の他者に対する絶対的な奉仕の精神であるのだろう。そこに自分のプライバシーの全てが吸収されている。同じ屋敷内で感情を強く表に出すことなく生活できる能力、そのレベルに達したであろうスティーブンスには、プラトニックラブの世界で手に入れる至福の境地こそ、内なる秩序を確保できる唯一の方法論であったと言える。

  彼には、内的秩序を壊すほどの洪水のようなときめきの感情を必要としなかったのである。女の匂いを感じるだけで充分だったのだ。必ずしもストイックだからではない。執事道に一生を捧げる思いの深さが、恐らく彼の人生の全てだった。

  それ故、これは哀切なる失恋の映画ではない。このような生き方にも至福が存在することを教えてくれた映画である。

  だから執事は、最後まで目立った破綻は見せなかった。なぜならば、彼は「プロセスの快楽」で生きた人生の達人であったからである。


(人生論的映画評論/「 日の名残り('93) ジェームス・アイボリー <執事道に一生を捧げる思いの深さ――― 「プロセスの快楽」の至福>」より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/93_10.html