太陽がいっぱい('60) ルネ・クレマン <「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み>

 冒頭の場面で、5年ぶりに会ったリプリーを、当人を嫌う友人のフレディに紹介するときに、「あいつは役に立つ」と語っていた。

  このワンシーンは、恐らく、映像全体を貫流する重要な描写である。

  フィリップにとって、リプリーの存在が、良くて「悪戯相手」、悪くて「道具」以上の存在ではないからだ。(後述)

   そして、そのリプリーから見れば、フィリップの存在は、階級的位置づけや、消費・蕩尽・需要能力という観点で見れば、「越えられない距離にある者」であると言っていい。

  この文脈的把握によって、相互の身分の距離感覚に起因する、「優越」と「卑屈」の心理的関係の歪みが必然化したのである。

  映像前半で描かれる、この両者の関係の歪みは、幾つかの場面で描かれていた。

  「僕のマルジュ。愛してる。分ってるはずだろ。君を捨てて、誰があんな奴と帰るもんか」

  これは、鏡に向かって、リプリーがフィリップの服を着用し、靴を履きながら独言するシーン。

  マルジュとは、フィリップのフィアンセ。

  「あんな奴」とは、トム・リプリー自身のこと。

  彼はこの時点で、フィリップへの「同化」を果たそうとしているのだという解釈が一般的である。

  しかし、この場面を目撃したフィリップから厳しく指弾されてもなお、従順な振舞いを延長せざるを得ないリプリーの自我の卑屈さが露わにされていた。

  リプリーを含む3者の共存を良しとしない、この関係の歪みを視認する不快感も手伝って、フィリップを占有し得ない苛立たしさが噴き上げることで、マルジュの感情の不満が沸騰し切っていた。

  この不満のエネルギーを、マルジュのように、下船するという「距離の戦略」によってクールダウンさせることができれば問題ないが、本作の主人公の場合は、先の「天国と地獄」の犯人にも似て、彼の自我に張り付く「卑屈」という厄介な感情を起動点にしているので、元より「距離の戦略」の有効性は無化されていたのだ。

  前述したように、「卑屈」という「負のエネルギー」が、激昂、虚勢、更に、欠如意識や優越への過剰な情感とリンクすることで、トム・リプリーには「相対思考」への選択の余地が閉ざされてしまっていたのである。

  そんな厄介な男に残された選択肢は、あまりに限定的だった。

  トム・リプリーは、それ以外にチョイスし得ない、最も野蛮な「第三の選択肢」に流れていったのだ。

  即ち、相手の存在を全人格的に抹殺するという例外的な選択肢であるが、この「第三の選択肢」に流れていかざるを得ない「悲哀」こそ、彼の最大の「不幸」であったと言えるだろう。

  それは、「出会うべきでないタイプの男」と出会ってしまった「不幸」であるが、その「不幸」の暴力的解決を必至とするほどに、彼の内側の「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪みこそ、彼の真の「不幸」の正体なのである。


(人生論的映画評論/「太陽がいっぱい('60) ルネ・クレマン  <「卑屈」という「負のエネルギー」を、マキシマムの状態までストックした自我の歪み>」より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/60.html