尼僧ヨアンナ('61) イェジー・カヴァレロヴィチ <「悪魔憑き」の現象という戦略 ―― 封印され得ない欲望系との折り合い>

  教理問答を経て、スリン神父の中で何かが変っていく。
   「あなたを助けます」

  彼はヨアンナに会いに行き、自分の思いを告げる。

  鉄格子の内側に閉じ込められているヨアンナは、今やもう、自分の中で騒ぐ情感の揺動を隠そうとしない。

  彼女は「悪魔」への愛を語るのだ。

   「私は悪魔が大好きで、悪魔に抱かれているとき、私はどんな運命でも甘受します。悪魔は最高の存在です」

  ヨアンナは、スリン神父にそう言い切ったのだ。

  ヨアンナへの思いが変わらないスリン神父は、自然の成り行きで彼女に近づいて、口づけした。

  自ら犯した行為に驚愕し、神父は走り去って行った。

  それは、「悪魔」を自分の体内に取り憑くことを受容する行為でもあった。

  「何でもするから、私に取り憑いていろ」

  スリン神父の覚悟を括った言葉が捨てられた。

  彼は「悪魔」に語ったのだ。

  その後のスリン神父の行為の異常性は、紛れもなく確信犯の範疇にある者の選択的行動だった。

  ヨアンナから「悪魔」を憑依させたスリン神父は、「悪魔」の命によって、斧を使って二人の村人を殺害したのだ。

  「悪魔」との取引である。

  ヨアンナへの愛の、彼なりの答えであるが、神父の犯した行動は、それ以外に考えられない最も象徴的な行為だったと言える。

  二人の男を殺害することは、彼にとって、「悪魔」を内側に憑依させることだからだ。

  破戒僧となったスリン神父は、自分の思いを、一人の女を通してヨアンナに伝えた。

  「全て愛が、そうさせたのだ」

  これが、スリン神父のヨアンナへの伝言。

  伝言を任せられた女こそ、駆け落ちをして男に捨てられた尼僧である。

  「俗」の象徴としての木賃宿との往還という適度なガス抜きをすることで、彼女は「悪魔憑き」から解放されていたが、「聖」の象徴としての尼僧院の生活を完全否定する駆け落ちへの流れ方は、「悪魔」への屈服であるから、男に捨てられる運命を余儀なくされるという「象徴性」を被されていたと読むことも可能だろう。

  「覚悟なき愛」の逃避行は自壊するということか。

  ともあれ、その尼僧を介して、スリン神父の「覚悟の愛」を受容するヨアンナの表情からは、映像を通して初めて開く裸形の人格像が露呈された。

  彼女は嗚咽したのである。

  確信的な破戒僧の、確信的な行為を受容した瞬間である。

  「聖」なるものの「象徴性」が一切剥ぎ取られたとき、そこに胚胎した未知の「前線」は、欲望系の情感世界を封印せずに済む地平に辿り着いたと言える何かなのか。

  少なくともそれは、ヘビーなモノクロの映像が訴えるものの根源に触れる何かであったに違いない。

(人生論的映画評論/「 尼僧ヨアンナ('61) イェジー・カヴァレロヴィチ  <「悪魔憑き」の現象という戦略 ―― 封印され得ない欲望系との折り合い>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/08/61.html