ピアノ・レッスン('93)  ジェーン・カンピオン <男と女、そして娘と夫 ―― 閉鎖系の小宇宙への躙り口の封印が解かれたとき>

 いつでもそこに帰っていく以外のない、母と娘が濃密に織り成す閉鎖系の小宇宙で、女の深くて激越な業(ごう)を沈黙の世界に閉じ込めているかのような、その固有の感情ラインがナチュラルに噴き上げていく唯一の媒体になるのは、海路遥々、「異界」の島まで運び入れた一台のグランドピアノだけ。

  「私自身は自分に声がないと思っていない。ピアノがあるから」

  これは、女自身による冒頭のナレーション。

  子供のように小さい体の女と、圧倒的な存在感を顕示するグランドピアノとの、どこか有機的で奇妙な関係律は、それだけで充分に相互補完的な融合感を表現していたのである。

  グランドピアノによって表現される旋律の有機的な躍動は、女の内側深くで貯留されていた様々な情動系の集合である。

  女は、この特殊で固有な感情表現によってのみ世界と繋がっているのだ。

  従って、世界と繋がる表現媒体である、女のグランドピアノを土地と交換した夫に対する感情は、もはや交叉する隙間すら持つことなく、凍結されてしまった。

  「犠牲に耐えるのが家族だ」

  これが、夫の言い草だった。

  原住民であるマオリ人の独自の文化と馴染むことを拒む、近代合理主義で固めたプロテスタントであるに違いない、夫の本音が放たれた決定的な一言によって、女の閉鎖系はより狭隘化し、他者からの不埒な侵入に対する元来の排他的な感情は尖鋭化するに至る。

  こんな厄介な女の、その閉鎖系の小宇宙に侵入して来た男がいた。

  女の中のピアノの存在価値の大きさを唯一理解できたその男は、内側に激しい情念をストックする女が放射するフェロモンに誘(いざな)われるようにして、双方の距離を加速的に縮めていく。

  その起動点は、悪天候と運搬の困難さ故に、浜辺に置き去りにされたグランドピアノを演奏する女の、神々しいまでに眩く、煌(きらび)やかで、弾ける肢体が放射する天上の音楽の如き風景の中枢に、男が立ち会ってしまったからだ。

  それは、女が娘を随伴して、男に頼んで、浜辺に置き去りにされたピアノを弾きに行くときの、物語の起動点になったシークエンス。

  荒波寄せる浜辺の一画で、木箱に入ったグランドピアノを弾く女の、限りなく天に開いた零れる笑みに合わせるかのように、軽快に側転し、踊る少女。

  映像で初めて見せる女の恍惚感が、原始の自然と睦み合い、溶融する。
 
  言語を無化するパワーを自給し得る、至福の境地に達したカタルシスが、「異界」の地の海岸のスポットを占有するのだ。

  それは、そこで開かれた時間の引力の只中で、自然と睦み合う旋律と一体化した女の神々しい表情を、時折、凝視する男の感情が決定的に変容した瞬間だった。

  男は木箱を取り除く。

  女と少女の連弾が繋がった。

  それは、母と娘の連弾というイメージと切れて、〈性〉を獲得した女と、未だ獲得し得ぬ女との競演に近い何かだったと言える。

  この浜辺のシークエンスが、物語の大枠を充分に語る濃密さを湛(たた)えていた。

  台詞なき、特化された映像の決定的な構図が、そこにあった。

(人生論的映画評論/「ピアノ・レッスン('93)  ジェーン・カンピオン <男と女、そして娘と夫 ―― 閉鎖系の小宇宙への躙り口の封印が解かれたとき>」より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/09/93.html