サイドカーに犬('07) 根岸吉太郎 <「距離」についての映像 ―― 或いは、成就した「役割設定映画」>

  これは、「距離」についての映像であった。大人と子供の距離である。

  この「距離」は、どこまでも少女に対する大人のアプローチの能力に拠って立っていて、大人の側の反応如何によって少女のその時々の対応が形成されていったのである。

  しかしヨーコは、「豪胆さの中の繊細さ」という形容に相応しいと思える、一人の自覚的な成人であったが故に、時々、大人の世界を少女の前で露呈することがあった。少女の戸惑いは、常にそこで生まれたのである。

  例えば、父とヨーコが本質的に「大人」の世界の問題で深刻に話し合っているムードを感じ取ったとき、ビールの空きコップの片づけをする薫に対して、ヨーコは「いいよ、薫。私やるから」と言って、子供である薫の「大人の視線に合わせようとする『良い子戦略』のあざとさ」を拒絶したのである。そのときのヨーコの行動は、完全に大人の視線からの小状況の収め方であったと言えるだろう。

  また、大人と子供の距離感を少女が過剰に感受し、それを自己表出することがあった。

  薫の父と「手切れ金」を貰って別れたヨーコが、薫と南伊豆に「夏休みの旅行」に行ったときのこと。

  干物作りを本職にするアイスクリーム屋のおじさんの家に泊まった際、そこでビールを酌み交わしていたとき、おじさんの母親から、「惚れちゃいけない男に惚れて、二進も三進も行かなくなって、ついその子を連れ出しちゃったんだよ」などと厭味を言われ、それが半ば本質を衝いていただけに、さすがのヨーコも含み笑いをするしかなかった。

  しかし、そんなヨーコの若気(にや)けた態度に今までにない距離感を感じた薫には、「自分がどうしていいか分らなくなる」という反応をする以外なかったのである。10歳の少女の内側には、「相手の厭味を受容する若気(にや)けた『大人』」としての、ヨーコへの人格イメージが形成されていなかったのである。

  偶(たま)さか子供じみた悪戯をしたり、奇抜な行動を身体化したりしても、どこまでも少女の中で、ヨーコの存在は物事に毅然と対処する積極的で、自立的な人格イメージの内に結ばれていたのだ。

  そんなイメージが崩された少女にとって、大人と子供の距離感を感受するばかりだったのである。

  それでも、少女の側から「大人」であるヨーコとの距離を埋めようと素朴にアプローチすることもあった

  自転車レッスンの休憩での、二人の会話の中で、薫はサドルを盗んだヨーコに、「その盗られた人はどうしたの?やっぱり、隣の人のサドル取り付けて帰ったの」と聞くことで、柔和に迫ったのである。

  このときの少女の心理は、最低限の倫理規範について厳しく躾けられてきたであろう母親からの影響を受けていて、そんな母とは違うずぼらな父にも似た行動を平気で犯す、「大人」の行動規範の逸脱性が気になったのである。相手が自分にとって極めて近接感を感受する「大人」であるが故に、少女は相手の反応によって確認できるラインの中に距離の縮小を願ったのだ。

  「そういうとき、薫はどうするの?」と反問され、答えられない少女に、一人の「大人」であるヨーコは、「人は正直であろうとすると、無口になると何かで読んだ。でも、そういう人は中々いないし、私もなれない。だから尊敬する、薫のこと」と答えることで、少女の小さくも、気になったらそれを確認せざるを得ない自我を納得させたのである。

  何より、子供の疑問に正直に反応するヨーコの態度に、少女は驚きを禁じ得なかったとも言えるだろう。


  ―― この章をまとめてみよう。

  繊細な少女の心を解放系にするヨーコのオープンな性格が起動点になって、短期間に二人の距離は見る見るうちに近接していった。

  ヨーコの人格から発散されるエキスを少女が存分に吸収することができたのは、少女の中になくて、少女がどこかで憧憬するメンタリティや行動傾向を、ヨーコの中に発見できたからである。更に言えば、そこで発見したものを自分の内側に吸収する能力が、10歳の少女の自我の内に形成されていたからである。

  しかし所詮、10歳の少女が、自分の父ほどの年齢の男を愛する成人女性の内側深くに侵入することなどできようがない。その逆はあり得ても、年少故に大人の感性に到達し得ない少女には、自分の視界で捉え得る相手からのホットなアプローチが差し伸べられない限り、関係の近接感は保持し得ないのである。

  だからこの関係はどこまでも限定的であり、条件制約的であり、受動的である外はないだろう。そこに微妙な感情の落差が生まれ、その落差によって関係の距離感の近接性が崩されるのである。

  少女の場合も、この文脈をなぞっていた。

  それは、大人と子供が結ぶ関係の本質的な限定性であるだろう。本来、大人と子供の関係とは、基本的人権においては「対等」ではあるが、それぞれの条件において完全に「平等」であるとは言えないのだ。

  10歳の少女が、成人女性の身体表現を受容し得る条件制約性の中でしか成立しない、その関係が包含する矛盾が飽和点に達したとき、その関係にピリオドが打たれるのは必至だった。

  映像の二人のケースは、相手の男、即ち、少女の父親との関係の縺(もつ)れを原因子にしていたが、それは本来、禁断の愛が自壊する必然性の問題の内に還元されるものだったと言っていい。

  だからこの二人の極めて特殊な関係は、「自在に羽ばたきなさい」というメッセージを残して、困難な状況下に置かれた少女の夏を、「風の又三郎」の如き疾風によって駆け抜けていった一人の成人女性との、その思い出深き睦み合いの邂逅と別れを必然化する枠組みの内に規定されていたのである。

  「距離」についての映像の鮮度が抜きん出ていても、結局は映像総体の完成度の高さによって補完されることで、稀釈化された役割設定性から完全なる武装解除を具現することができなかったのだ。しかしテーマ性の陳腐さと共に、そのことが全く映像の瑕疵(かし)になっていないということ自体、充分に評価に値する何かであった。

  それは多分に、原作、シナリオ、演出、そして何より、「器が大きいのか、それとも漏れているのに気付かないだけなのか、ミステリアスな男だよ」(薫の父に対する仕事仲間の評価)と言わしめる父親役の男優も含めて、主役の二人を演じた女優の天晴れな演技力に依拠するものであったに違いない。


(人生論的映画評論/「サイドカーに犬('07) 根岸吉太郎  <「距離」についての映像 ―― 或いは、成就した「役割設定映画」>」より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/09/07_20.html