かもめ食堂('05) 荻上直子 <「どうしてものときはどうしてもです」―― 括る女の泰然さ>

  そんな彼女に、5人の登場人物が、彼女自身の「距離感」を決して壊すことなく絡んでいく。

   「ガッチャマン」の歌詞を教えてもらったミドリ、両親の看護を務め終え、初めて人生の解放感を手にしたに違いないマサコ。この二人が最も主人公の「距離」に最近接するが、そのモチーフには明瞭な差異があった。

  以下、サチエとの関連を通して、彼らについて言及していこう。

  ―― 自分が指差した地図の場所がフィンランドだった、というミドリのケースは、多少そこに作為性が見られなくもないが、その内面は恐らく、「居心地悪さを抱えた、自分の現在を何とかしなければ」と思わせる気分からの、一種の状況突破を求める心情であったに違いない。

  サチエが「ガッチャマン」の歌詞を知るために入った本屋で、「ムーミン谷の夏」を読んでいた女性の存在が眼に留まって、サチエは思い切って歌詞の内容を尋ねるシーンがあった。その女性こそミドリだったが、「ガッチャマン」の歌詞を完璧に覚えていたサチエを前に、自らフィンランド行きのモチーフを語った後、彼女は初対面のサチエに少し心を開いたのである。

  「来てやらない訳にはいかなかったのです。どうしても…」とミドリ。
  「そりゃ、どうしてものときはどうしてもです」とサチエ。
  「ですよね…」とミドリ。
  「来てやりましたか」とサチエ。
  「ハイ」とミドリ。
  「ようこそ、いらっしゃいました」とサチエ。

  この会話が、私の中で、映像を通して最も印象に残る言葉になった。涙が出そうにもなった。見事であるという外になかったのだ。

  「来てやらない訳にはいかなかった」というミドリの決定力のある言葉に対して、サチエもまた、「どうしてものときはどうしてもです」と反応したのである。

  そのような言葉を語らせる女がいて、それを凛と語る女がいたということ、それに尽きるだろう。その泰然さこそ、本作の主人公の真骨頂であった。

  ―― 次に、マサコのケース。

  彼女の行動モチーフは、極めて分りやすいものになっていたが、そこに映像表現の隠喩が込められているようで興味深いものがあった。

  「エアーギター世界選手権」という愉快な試みをする国柄への関心を本人は語っていたが、手違いのために空港の中で荷物が紛失したことで、荷物が見つかるまで「かもめ食堂」の手伝いをすることになったという訳である。

  そんな彼女が、しみじみ語った言葉。

  「この国の人たちはどうしてこんなに、ゆったり、のんびりしているように見えるんでしょうか?」

  その疑問に対して、「森。森があります」と答えたのが、日本贔屓の青年トンミ。

  その直後に映し出したのは、マサコが森の中を散策しながら、キノコ狩りをする姿。

   「沢山採ってきたんですけど、落としたみたいで。いつの間にか、なくなっていたんです」

  この一連の言葉から推測できるのは、彼女が「落し物」を探す目的で、北欧の国に意を決してやって来たという、映像表現における作り手のメタファーであると考えられる。

  両親の看護を務め終え、初めて人生の解放感を手にしたであろう彼女にとって、まさに内なる解放感を身体化したとき、その解放感を埋めるに足る対象との遭遇こそ、彼女の「第二の人生」をリセットすべき「価値ある何か」であったに違いない。

  だから彼女には、その「価値ある何か」を探し続ける時間のみが、自己の存在性の証明になるということなのだろう。そんな彼女にとって、「現在」という時間は、「『落し物』を探す自分がいる」ことを確認するための、言わば、「現在進行形の人生」それ自身であるということではないか。

  しかしその時間には、「焦眉(しょうび)の急」という切迫性が全く感じられず、「ゆったり、のんびりしているように見える」国でのスローライフを希求する者の、その一つのイメージの具現化としての何かに逢着したように思われるのだ。

  それ故、彼女は「かもめ食堂」に再び戻って来て、以下の思いを、サチエに向かって開いたのである。

  「何だか変なおじさんに猫を預かってしまったので、帰れなくなりました。またしばらくこの街にいようかと思うんですけで、もう少し『かもめ食堂』でお手伝いしてもいいですか」

  彼女の「落し物」探しの旅は、まだ端緒についたばかりなのである。

  因みに、森から戻って来た彼女が、「かもめ食堂」のソウルフードであるおにぎりを注文する最初の客になっていったことが描かれていたが、それもまた彼女が拾い上げた「落し物」であったのだろうか。両親の世話を通して、彼女は一貫して、「おにぎりを作って、食べさせる介護者」だったであろうことが推測させられるからである。

  「人に食べさせるおにぎりを作る者」から、「人が作ったおにぎりを食べる者」への変容こそ、彼女にとって人生の解放感の象徴であり、新たな旅立ちのシグナルでもあったと言えないだろうか。

(人生論的映画評論/「かもめ食堂('05) 荻上直子  <「どうしてものときはどうしてもです」―― 括る女の泰然さ>」より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/07/05.html