処女の泉('60) イングマール・ベルイマン <「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格による破壊的暴力性>

 舞台は、近世を間近にした中世のスウェーデン

 母親のメレータの熱心な督促もあって、信仰深い豪農の娘カーリンが、ローソクの寄進に向かわせる教会への旅程で、親のいない山羊飼いの兄弟たちに凌辱された挙句、撲殺され、その娘の父であるテーレが復讐するというだけの話である。

 ただ映像の最後に、娘の両親が、その亡骸を抱き上げた場所に泉が湧いてくるという、そこだけは、ベルイマン信者による熱心な論議を呼びそうなラストシーンが用意されていた。

 以下、本作のテーマ性に即して映像をまとめてみたい。

 キリスト教化以前に存在した土着信仰を集約した北欧神話をベースにした本作で描かれた、件の神話の最高神であり、「戦闘神」でもあるオーディンの存在は、キリスト教にとって排除すべき異教神である。

 その象徴が、豪農である両親の命を受けて、教会にローソクの寄進に行くことになった一人娘のカーリンを呪詛する、父なし子で淫乱な下女のインゲリ。

 本作の中で、教会への遥かな旅程の中で、インゲリをオーディン神信奉の仲間であると見抜いた男が登場する場面に見られるように、彼女は明らかにキリスト教と対立する異教神の具現的人格として描かれている。

 「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格が本作を支えていて、この形而上学的な問題提起こそが物語のプロットラインを貫流していると言っていい。

 即ち、長旅の過程で出来したカーリンのレイプ事件と無惨な死、更に、その事件を目撃しながら何もできないインゲリと、「大罪」を多く背負う、事件の主謀者である山羊飼いの兄弟たち(「山羊」は、「七つの大罪」の中で「色欲」を象徴すると言われる)が、敬虔なキリスト教徒(豪農)との敵対関係の中で、遂に、カーリンの父親であるテーレによって犯人の3兄弟が殺害されるという陰惨な構図が、物語の基幹を支え切っている。

 深い森の藪の中の悲劇を描いた「羅生門」の模倣ともとれる本作が、「羅生門」と別れるのは、ヒューマニズムを基調とした黒澤の映像世界と異なって、ここでは、明瞭に「キリスト教」という、一神教の在り処を巡る形而上学的なテーマが基調となっているという点にあるだろう。

 「神の沈黙」の問題を世に問うたイングマール・ベルイマンの本来の問題意識が、本作では、「処女の泉」の描写に象徴されるように、異教神を征伐するキリスト教の勝利とも思えるラストシーンに流れていったのは、彼の映画に親しんできた者に混乱を与えたかも知れない。

 因みに本作には、異教神の具現的人格としてインゲリが、敬虔なキリスト教であるテーレの前で懺悔する象徴的なシーンがあった。

 以下、殺害されたカーリンを置き去りにして、館に戻ったインゲリの懺悔。

 「殺して下さい。悪いのは私です。憎かった、カーリンのことがずっと。だから、オーディンに災いを祈った。あの3人は悪くないわ。オーディンに操られて、あんなことをしただけ。カーリンを抑えつけて、辱めた。犯されればいいと思った。あいつらが彼女を犯して、棒で打ち殺すのを、黙って、ただ見ていた・・・」

 それまで悪態をついていたインゲリは、映像のラストにおいて、打って変ったようにキリスト教徒の前で従順になっていくが、まだこのときは、懺悔を吐露するネガティブな感情を超えるものではなかった。

 彼女は、翌日、豪農夫婦と召使たちを随伴して、カーリンの遺体探しの旅を先導させられる羽目になった。

 インゲリの従順と敗北の象徴的シーンは、ラストシーンで、「泉」にシンボライズされた「聖水」を、繰り返し顔を拭う描写の内に自己完結するに至ったのだ。


(人生論的映画評論/ 処女の泉('60) イングマール・ベルイマン <「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格による破壊的暴力性>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/01/60.html