グレート・ブルー 国際版('88) リュック・ベッソン <「マリンブルー」の支配力だけが弾ける世界の、単純な映像構成の瑕疵>

  この映画の基本骨格の特徴は人物造形が類型化されているという点にある。

 そして、その一点こそが、この映画の最大の瑕疵であると言っていい。

 それを象徴的に示すのは、「海」に対する二人の男の視座の決定的乖離である。

 一方は、「ダイバーとしての潜水記録を塗り替えるためのフィールド」として「海」が存在するだけだが、もう一方の場合は、決してそのようなスポーツ的な視野で「海」を把握することをせず、何よりも、「『聖なるもの』としてのイルカが遊弋(ゆうよく)する『母なる大自然』」というイメージの内にしか、「海」の存在は有り得ないのだ。

 「新入り」が来てから食事も演技もしないイルカを水族館から盗んで、海に戻すジャックのエピソードは、水族館という名の文明の一装置と対峙する、「『母なる大自然』である『海』」を遊弋する、「聖なるもの」としてのイルカのイメージを象徴するもの以外ではなかった。

 このとき、ジャックには「救出」という観念しかなかったのだ。

 「女を連れ出すのに担架はいらないんだぞ。助けがいるのはイルカだけじゃない。お前は本当に女を知らないな」

 「純粋」、「無垢」、「超俗」、「寡黙」、「非文明」という類の、薄気味悪い象徴的人格像で固まっているが故に、ほぼ100パーセント浮世離れしたジャックに苦言を呈した、このエンゾの言葉こそ、遥かに人間的なイメージを代弁するものだが、あろうことか、この映像はジャックの「イルカ救出」劇を、「聖なる使者」の「聖なるセレモニー」として拾い上げたのである。

 従って、「ダイバーとしての潜水記録を塗り替えるためのフィールド」として、「海」のイメージを把握する男は葬り去られ、「聖なるもの」としてのイルカと睦み合う男だけが、「『母なる大自然』である『海』」に生き残るのだ。

 生き残った男には、殆ど人間の世俗的な言語が通じない辺りにまで、深々と這い入っていく外になかった。

 愛する男との子を孕んだ女を置き去りにした、「聖なる使者」としての男にとって、今や、戻るべき基地としての「家庭」という名の強制力は不要でしかないのだ。

 だから男は、妻になるであろう女のアピールを確信的に拾おうとせず、「聖なるもの」としてのイルカと睦み合うためにのみ深海に潜っていくのである。

 これが本作の基本構造であり、作り手の情感的なメッセージであったに違いない。

 しかし、このような物語の類型的な映像構成性こそが、残念ながら本作を、フラットな自然讚歌への印象誘導に還元させる構築力しか持ち得なかった。

 思うに、およそ俗世界から遊離した男を限りなく「聖化」して、そこに「聖なる使者」としての象徴的人格像で固め抜いた映像の薄気味悪さに張り付く、「純粋無垢」で寡黙なる内面世界の、その突き抜けたナイーブさによってのみ生きる男が放つ、底なしの「清潔感」のどこに、人間的魅力の欠片を拾えると言うのだろうか。

 殆ど実在し得ないような強引な人物造形に拘泥する作り手の、ドロドロのナルシズムが致命的な徒(あだ)となって、本作で主役であったはずの男の底なしの「清潔感」のイメージよりも、遥かに人間的な振舞いをするイタリア人ダイバーの圧倒的存在感だけが、過半の観客の記憶の内に深く印象付けられたという訳だ。

 従って、本作において、「嫉妬」、「優越志向」、「無謀なチャレンジ精神」、「深いマザコン濃度」、「人並みの異性観と情欲濃度」、「自己顕示志向」、「陽気快活」等々、「俗物」扱いされた男が放つ、その抜きん出た個性の圧倒的臭気に人間的魅力を感受してしまう振れ方こそが、実はごく普通の「親和動機」を惹起させる普通のモジュールと思われる。

 殆ど深みのない、「マリンブルー」の支配力の凄みだけが過剰に弾ける世界の、あまりに単純な映像構成の瑕疵は、以上の説明でほぼ集約できるだろう。

 たまには息抜きして、オーストラリアの「モンキーマイア・ドルフィンリゾート」(野性のイルカが毎日やって来るという、シャーク湾にある有名リゾート)に行って、「聖なるもの」としてのイルカと対面しよう、などという類の脆弱なアピール以上の何ものも構築し得ない映像の、その驚くほどの薄っぺらさは、恐らく、カルト的な愛好者のペットアイテムにしかなり得ないと言ったら言い過ぎか。

 この映画が、地元フランスで批評家の酷評に遭ったのは当然だった。

  本作に対する以上の把握が、私をして、「グラン・ブルー」(Le Grand Bleu)の「完全版」を観る気にさせない最も大きな理由である。

  様々な意味において、「美し過ぎる映像」こそ、私が最も厭悪する映画であるからだ。

  そして何より、特定的な動物を「聖化」する発想の怖さこそ、私が本作に嗅ぎ取った、最も不快なメッセージであった。

  イルカによって餌にされるイワシ、サバなどの魚などは、愚かなる人間によって特定的に選択された「生き物」ではないので、食物連鎖当然の帰結の現実を無視する厚顔さの稜線上に、単にペット化されたイルカを特定的に「聖化」してしまう、その過剰なペット思想の発想が何より傲慢なのだ。

 大体、かつて各国で、鯨油や食肉として普通に捕獲対象とされていたにも関わらず、普通の魚食のレベルでは全く問題がないとされながらも、「生物濃縮」による有機水銀渦の危険性が声高に叫ばれたり(海に住む魚はほぼ全て、水銀を蓄積させている)、或いは、脳サイズの大きさ故にイルカの知能が高いという類の、科学的根拠が希薄な絶対保護論が罷(まか)り通ったり等々、いよいよ盛んになっていく「イルカ保護」という名の、限りなく恣意的で、特定的に選択されていく「動物愛護」の思想の狭隘さに辟易する思いである。

(人生論的映画評論/ グレート・ブルー 国際版('88) リュック・ベッソン <「マリンブルー」の支配力だけが弾ける世界の、単純な映像構成の瑕疵>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/06/88.html