ここに一人の男がいる。
この男は、「アメリカ」という帝国的な「国家」による外的強制力の一部分を、堅固に守る律儀な性格を持ち合わせていたために、予測し難い交通事故に遭遇し、大怪我をしてしまう。交通ルールをきちんと守って走行する男の車に、一時停止を無視した車が衝突し、その結果、腕の骨が皮膚から飛び出る重傷を負ってしまうのである。
一命を取り留めた男は、子供にシャツを売ってもらって腕を吊り、そのまま、まるで何事もなかったかのようにして、平然とその場所から去っていくのだ。
このカットが、際立って毒気の強い映像における、この男の最後の「雄姿」を伝える描写となった。
律儀なまでの男の規範意識は、全て内側から組織されてきたものだ。
その行動規範に則って行動し、生きてきたに違いないのだが、多くの場合、「国家」が強いる法体系という名の重要な行動規範を無視したことによって、男は無慈悲な殺人鬼と呼ばれ、なお捕縛されずに自己基準によってこれからも動いていくのであろう。
交通事故に遭う直前に、男は自分のルールに則って、命を請う振舞いを見せたかのような若い女性を殺害してきたばかりなのである。
このシーンが、映像を通して、男が最後に「記録」した殺人となったが、実はそれ以前にも、何人もの罪なき人々や同類の犯罪者が、この男によって絶命させられてきているのだ。
肝心な部分での心理描写を半ば確信的に捨てたであろうこの恐るべき映像は、この男によって一貫して支配され、リードされていて、観る者は否が応でも、男の堅固な行動規範の超越性を見せつけられていくのである。
男は人生を、コインの表か裏によって判断する賭けごとのように考えている。
男が投げたコインが表と出るか裏と出るか、その結果によって、男が命令した相手の生死をも決定づけてしまうのだ。
先の若い女性(男によって追跡された、ベトナム帰還兵の女房)の前に、まるで予約された悪霊のようにして出現した男は、そのときもまた、女に自分の生死をコインで判断させようとしたのである。
以下、そのときの二人の会話。
「私を殺しても意味はない」
「だが約束した。お前の亭主に」
「主人に私を殺すと約束したの?」
「彼には君を救う機会があった。だが、君を使って助かろうとした」
「それは違うわ。そうじゃない。殺す必要はないわ」
「皆、同じことを言う」
「どう言うの?」
「“殺す必要はない”」
「本当よ」
「せめてこうしうよう。表か裏か」
「・・・決めるのはコインじゃない。あなたよ」
「コインと同じ道を俺は辿った」
最後の男の言葉は意味深だったが、ともあれ、映像はその殺人現場を映し出さなかった。
しかし、女の家を出た後の男の仕草(血糊が付いたであろう靴を地面に叩く)によって女が殺害されたことを、観る者は認知するのである。
勿論、男の仕草がなくても、男が女を殺害したであろうことは、本作と付き合ってきた鑑賞者には了解し得るだろう。
なぜなら、男はコインによって相手の生死を決定づけるという恐怖ルールを、決して反古にしないことを知り得るからである。
大体、男の独自で畏怖すべきルールの基幹には、「犯行現場で自分の顔を見た者」と「自分の命令に逆らった者」、「自分の行動継続に邪魔になる存在」は必ず殺すという行動規範が厳として存在するのである。女もまた、自分が与えたコイントスの「チャンス」を拒否したから、殺害される運命から逃れられなかったのだろう。
人生は賭けごとであるが故に、人は誰でも、これまでずっと賭け続けてきた歴史を持つという認識が男の内側で前提化されているから、男によって与えられたと信じさせるに足るコイントスの「チャンス」を、相手の恣意性によって拒むことは決して許されないのである。
この男は、「アメリカ」という帝国的な「国家」による外的強制力の一部分を、堅固に守る律儀な性格を持ち合わせていたために、予測し難い交通事故に遭遇し、大怪我をしてしまう。交通ルールをきちんと守って走行する男の車に、一時停止を無視した車が衝突し、その結果、腕の骨が皮膚から飛び出る重傷を負ってしまうのである。
一命を取り留めた男は、子供にシャツを売ってもらって腕を吊り、そのまま、まるで何事もなかったかのようにして、平然とその場所から去っていくのだ。
このカットが、際立って毒気の強い映像における、この男の最後の「雄姿」を伝える描写となった。
律儀なまでの男の規範意識は、全て内側から組織されてきたものだ。
その行動規範に則って行動し、生きてきたに違いないのだが、多くの場合、「国家」が強いる法体系という名の重要な行動規範を無視したことによって、男は無慈悲な殺人鬼と呼ばれ、なお捕縛されずに自己基準によってこれからも動いていくのであろう。
交通事故に遭う直前に、男は自分のルールに則って、命を請う振舞いを見せたかのような若い女性を殺害してきたばかりなのである。
このシーンが、映像を通して、男が最後に「記録」した殺人となったが、実はそれ以前にも、何人もの罪なき人々や同類の犯罪者が、この男によって絶命させられてきているのだ。
肝心な部分での心理描写を半ば確信的に捨てたであろうこの恐るべき映像は、この男によって一貫して支配され、リードされていて、観る者は否が応でも、男の堅固な行動規範の超越性を見せつけられていくのである。
男は人生を、コインの表か裏によって判断する賭けごとのように考えている。
男が投げたコインが表と出るか裏と出るか、その結果によって、男が命令した相手の生死をも決定づけてしまうのだ。
先の若い女性(男によって追跡された、ベトナム帰還兵の女房)の前に、まるで予約された悪霊のようにして出現した男は、そのときもまた、女に自分の生死をコインで判断させようとしたのである。
以下、そのときの二人の会話。
「私を殺しても意味はない」
「だが約束した。お前の亭主に」
「主人に私を殺すと約束したの?」
「彼には君を救う機会があった。だが、君を使って助かろうとした」
「それは違うわ。そうじゃない。殺す必要はないわ」
「皆、同じことを言う」
「どう言うの?」
「“殺す必要はない”」
「本当よ」
「せめてこうしうよう。表か裏か」
「・・・決めるのはコインじゃない。あなたよ」
「コインと同じ道を俺は辿った」
最後の男の言葉は意味深だったが、ともあれ、映像はその殺人現場を映し出さなかった。
しかし、女の家を出た後の男の仕草(血糊が付いたであろう靴を地面に叩く)によって女が殺害されたことを、観る者は認知するのである。
勿論、男の仕草がなくても、男が女を殺害したであろうことは、本作と付き合ってきた鑑賞者には了解し得るだろう。
なぜなら、男はコインによって相手の生死を決定づけるという恐怖ルールを、決して反古にしないことを知り得るからである。
大体、男の独自で畏怖すべきルールの基幹には、「犯行現場で自分の顔を見た者」と「自分の命令に逆らった者」、「自分の行動継続に邪魔になる存在」は必ず殺すという行動規範が厳として存在するのである。女もまた、自分が与えたコイントスの「チャンス」を拒否したから、殺害される運命から逃れられなかったのだろう。
人生は賭けごとであるが故に、人は誰でも、これまでずっと賭け続けてきた歴史を持つという認識が男の内側で前提化されているから、男によって与えられたと信じさせるに足るコイントスの「チャンス」を、相手の恣意性によって拒むことは決して許されないのである。
(人生論的映画評論/ ノーカントリー('07) コーエン兄弟 <「世界の現在性」の爛れ方を集約する記号として>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/04/07.html